6話【同床異夢】
ジャリン。
ジャリン。
音は、確かにある。
だが――姿がない。
雫は身を低くしたまま、呼吸を浅く抑える。
耳を澄ませる。
廊下の空気は重い。
湿っている。
血と、鉄と、腐臭が、肺の奥にまとわりつく。
鎖の音は、天井からか。
床下からか。
それとも――背後か。
方向が定まらない。
ジャリン。
近い。
確かに近い。
だが、何も見えない。
見えないまま、空気だけがわずかに歪む。
闇そのものが、息をしているようだった。
その時――
ベチャッ。
視界の端を、黒い塊が横切る。
「っ!」
反応が、一瞬遅れた。
鎖の音に意識を奪われすぎていた。
魍魎が、雫の横をすり抜ける。
瘴気。
腐臭。
粘つくような気配。
狙いは――人間。
「後ろ!」
雫が叫ぶ。
一鉄が振り向きざま、ライトを切り替える。
ビュン――
収束した光が、細い刃となる。
そのまま、横薙ぎ。
ビジュッ!
魍魎の脇腹に、光が触れた。
触れた部分から、黒い粒子が霧のように弾ける。
そのまま、身体が上下に断たれた。
ドンッ!
勢いのまま、分かれた身体が扉へ叩きつけられる。
だが――
グチ。
グチ。
上半身と下半身が、別々に蠢く。
床を掻く。
壁に爪を立てる。
まだ、止まらない。
「……まだ動くのかよ」
一鉄の声が、低くなる。
再び、光の刃が走る。
切る。
切る。
切り刻む。
できるだけ細かく。
原形が分からなくなるまで。
怒りを叩き込むように。
存在そのものを、潰すように。
やがて。
魍魎は霧のように崩れ、消えた。
跡には、何も残らない。
「ふ――」
一鉄が大きく息を吐く。
だが、肺に入る空気は重いままだった。
警戒は解かない。
光の刃を両手で構える。
ジャリン。
ジャリン。
鎖の音は、消えない。
まだいる。
すぐ近くに。
見えないまま。
こちらを見ている。
――朔夜の夢――
幼い朔夜。
両親と手を繋いで歩く。
声を潜める生活。
息を殺す日々。
夜の裏側に身を潜めるような暮らし。
それでも――温かかった。
確かに、家族だった。
奪われるまでは。
光統院。
白い光。
白い制服。
白い正義。
それが、全てを壊した。
「月読み」
母は毎月一度だけ、静かに目を閉じて唱えた。
夜を見上げる。
月のない闇すら見透かすように。
何かを確かめるように。
そして、必ずこう言った。
「家族を守る、おまじない」
幼い朔夜は、それを信じていた。
それで未来が変わると。
守られるのだと。
だが、ある日。
“おまじない”を唱えた母の顔色が変わった。
血の気が引く。
目だけが、遠くを見る。
まだ来ていないはずの何かを、もう見てしまったように。
朔夜を見る目が、どこか悲しかった。
そして――見つかった。
父と共に、光統院へ立ち向かう母。
朔夜だけを逃がすために。
振り返らない。
泣かない。
ただ、叫ぶ。
「生きて!」
最後の言葉。
それだけが、焼き付いて離れない。
朔夜は泣いた。
だが、声は出せなかった。
音を立てれば、見つかる。
だから、息を殺して逃げた。
涙だけを流して。
高架下。
膝を抱えて震える、小さな身体。
そこへ現れたのは、質素な老人だった。
何も聞かない。
何も問わない。
事情も、血も、過去も。
ただ、静かに頭を撫でた。
「来るもの拒まず……」
その一言に、朔夜は縋った。
救いというより。
落ちないための、細い糸のように。
そして、老人の後を歩いた。
――救護室――
「……母さん……父さん……」
眠る朔夜の目尻から、涙が零れる。
紡はそれを静かに拭う。
指先が震えている。
けれど、離さない。
「ごめん。起こした?」
朔夜が目を開ける。
視界はまだ、ぼやけている。
呼吸は浅い。
ゆっくりと、身体を起こそうとする。
――廊下――
「人間を助ける……」
声がした。
真後ろ。
雫が振り返る。
誰もいない。
「……あれだけ虐げられたのに」
また、背後。
振り向く。
いない。
距離が定まらない。
位置が掴めない。
音だけが、耳元を這う。
呼吸が乱れる。
心臓が、嫌な速さで脈を打つ。
「誰なの?」
雫が、闇へ問いかける。
「……常闇の遣い……辻斬り……」
声が返る。
低い。
揺れている。
酔っているような、不安定な響き。
だが――芯だけは異様に鋭い。
ゆらり。
ゆらり。
身体を揺らしながら、闇が形を持つ。
落ちたライトの残光に、輪郭が滲む。
そして――現れた。
辻斬り。
首枷に刻まれた名。
――“結月”。
鎖。
盲いた瞳。
そして、暗黒の刀。
光を吸い込む刃。
そこだけ、闇が一段深い。
まるで、夜そのものを鍛えたような刀身。
ジャリン。
ジャリン。
身体を揺らすたび、鎖が鳴る。
「闇に酔った……怪人」
ニタァ――
歪な笑み。
静かに。
音もなく。
笑った。
雫の身体が、凍りつく。
指先が、わずかに震える。
その顔に、見覚えがある。
首枷の名が、視界に焼きつく。
心の奥底に沈めたはずの記憶が、一気に浮かび上がる。
「ゆ……結月……さん」
声が、掠れた。
呼んだ瞬間、逃げ場がなくなる。
そんな名だった。
――雫の記憶――
真っ白な牢獄。
光しかない部屋。
焼かれた両手。
焦げた肉の臭い。
皮膚の裂ける音。
涙すら枯れた時間。
痛みだけが、日付の代わりだった。
隣には、結月がいた。
両目から血を流しながら。
鎖に繋がれ。
頭を垂れ。
動かない身体。
だが――生きていた。
死ぬことすら許されないように。
ブツブツと。
何かを呟いていた。
祈りのように。
呪いのように。
壊れた夢の続きを、何度もなぞるように。
――廊下――
結月は、ゆっくりと刀を持ち上げる。
動きは遅い。
だが、迷いがない。
いや。
遅いからこそ、逃げられない。
刃先が、雫の眉間へと向けられる。
距離は、あと僅か。
避けられない。
逃げられない。
そう本能が理解してしまうほどの圧。
ジャリン。
鎖が鳴る。
「人間を守る価値なんてあるの?」
笑顔が、消える。
残ったのは、静かな声だけ。
怒鳴りではない。
恨みをぶつける叫びでもない。
もっと重い。
もっと深い。
何度も絶望を反芻した者だけが辿り着く問い。
それは、雫に向けられているようで。
同時に――かつての自分自身へ向けた問いでもあった。




