5話【怪人の矜持】
ゴンッ!
「痛でぇ!」
光統院の制服が、一鉄の足にしがみついて離れない。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
反射的に拳骨を落とす。
乾いた音。
小さな、くだらない復讐。
――それだけで、この場の異常さが際立つ。
呆気なく、光統院は制圧された。
「何だお前はっ!」
怒鳴る声に、震えが混じる。
「やめなさい」
雫が鋭く制した。
一鉄の肩が、わずかに落ちる。
「何があったの?」
建物内の闇を警戒しながら、雫が問いかける。
ガラス越し。
廊下の奥は、黒く沈んでいる。
光は、そこだけを拒むように止まっていた。
線を引いたように。
それ以上、進まない。
魍魎は出てこない。
だが――“いる”。
視線の奥で、確かに“こちらを見ている”。
「せっ……先輩が……」
隊員は震えている。
言葉が続かない。
喉の奥で、何かが詰まっている。
見たものを、言葉にできない。
「怪我人がいるの。救護室はある?」
「は……はい……」
ようやく、一鉄の足から手が離れる。
よろよろと立ち上がる。
膝が笑っている。
「魍魎は、私が見てくるわ」
静かな声。
だが、迷いはない。
「大丈夫か?」
一鉄の問い。
雫は、わずかに微笑んだ。
「私は怪人よ」
それは、隠すための言葉ではない。
逃げるための言葉でもない。
――自ら選んだ在り方。
その声音には、静かな誇りが宿っていた。
「一鉄さんは彼と電源設備を。紡は朔夜君を連れて救護室へ」
即断。
迷いのない指示。
「分かった」
紡は頷く。
朔夜を支える。
だが、足元が崩れる。
支えきれない。
無言で、一鉄がしゃがみ込む。
背を向ける。
朔夜を背負う。
重い。
だが、何も言わない。
――監視室――
隊員は視線を上げない。
廊下の闇を、決して見ようとしない。
見れば、“何か”と目が合うと分かっているように。
監視室の隣。
救護室。
白い。
白すぎる。
手術室のような光。
影が、存在しない。
「……ごめん」
ベッドに横たわり、朔夜が呟く。
かすれた声。
「謝らないで」
紡は即座に返す。
手は止めない。
消毒。
布。
血を拭う。
指先は震えている。
それでも――止まらない。
監視室に戻る一鉄。
「設備室はどこだ?」
「……あの先です」
震える指が、闇を指す。
「僕は……ここにいて、良いですか……?」
縋る声。
「お前は光統院だろ!」
一鉄の一喝。
肩が跳ねる。
「一鉄さん」
雫が低く制する。
「……いいわ。ただし、私たちのことは本部に知らせないでね」
隊員は何度も頷く。
首が折れそうなほどに。
「武器は?」
一鉄が問う。
隊員は腰のライトを外し、差し出した。
「これを……」
スイッチは二つ。
一つ。
白い照明。
もう一つ。
ビュン――
光が収束する。
細く。
鋭く。
刃の形を取る。
「……人は斬れません」
わずかな間。
「便利だな……」
一鉄が指先で触れる。
熱はない。
重さもない。
感触もない。
すり抜ける。
ただの光。
「魍魎専用です」
隊員が言った。
一鉄が廊下の照明スイッチを押す。
反応はない。
沈黙。
「無理するなよ。俺は設備室へ行く」
「私は魍魎を足止めするわ」
雫は掃除棚からモップを引き抜く。
軽く振る。
空気を裂く音。
重さを確かめる。
給水器。
コップ一杯の水。
一気に飲み干す。
喉が鳴る。
吐息。
静かに。
空気が変わる。
戦う者の呼吸になる。
――廊下――
血の匂い。
鉄。
生臭さ。
ぬるい空気。
L字の曲がり角。
床に残る光の残滓。
そこだけ、わずかに明るい。
その外。
闇。
――いた。
魍魎。
黒い身体。
揺れる。
ぬらり。
ゆっくりと、こちらを向く。
遅い。
だが――確実に捉えている。
雫の視線が、固定される。
間合いを読む。
呼吸を整える。
重心を落とす。
踏み込む。
一瞬で距離を詰めに行く。
その瞬間。
空気が、沈んだ。
スッ。
闇の奥から。
音もなく。
現れる。
暗黒の刀身。
光を吸い込む。
反射しない。
そこだけ、闇が“濃い”。
存在だけが、浮かび上がる。
「っ!」
雫は反射で身体を沈める。
髪が、数本。
宙に舞う。
ほんの紙一重。
理解が追いつかない。
魍魎ではない。
“別の何か”がいる。
「戻って!」
声が走る。
考えるより先に、身体が動く。
一鉄が振り返る。
だが、遅い。
バタンッ!
監視室の扉が閉じた。
光が、断たれる。
廊下が、一瞬で“沈む”。
深い闇。
押し潰すような暗さ。
「開かねぇ!」
一鉄が扉に体当たりする。
必死にノブを回す。
押す。
引く。
叩く。
力任せに。
だが――動かない。
まるで、内側から固定されているかのように。
静寂。
音が消える。
呼吸だけが、やけに大きい。
汗が額に浮かぶ。
ジャリン。
ジャリン。
鎖の音。
どこからともなく。
だが――確実に近い。
一歩。
また一歩。
闇の中で。
“何か”が、こちらへ来る。
逃げ場は、ない。




