9話【おまじない】
ス――
結月が握る、“闇に酔う者しか振るえぬ刀”。
酔闇の刃が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
輪郭が、わずかに崩れる。
闇そのものを固めたような刀身が、不安定に滲む。
だが――
「……嘘……」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
細い。
壊れかけた声。
「また、私を騙すの……」
脳裏に焼き付いている。
頼光の冷たい眼。
嘲るような笑み。
醜悪な人間たちの欲に濁った顔。
酒と金と快楽に溺れながら、自分を道具として扱った者たち。
そして――
血に濡れた夫の姿。
あの時。
“目で見た最後の世界”。
あれが、最後だった。
あれ以降のものなど、信じられるはずがない。
グッ……!
結月は、酔闇を握り直す。
指先に力がこもる。
揺らいだ闇が、再び濃くなる。
光を喰らうように、刃が黒を深めていく。
迷いを塗り潰すように。
ダッ――!
踏み込む。
一瞬で距離を詰める。
速い。
さっきまでの揺らいだ足取りではない。
疑いを振り切るような、一直線の踏み込み。
横薙ぎ。
ザッ――!
雫のモップが、容易く断ち切られる。
抵抗すら許されない。
手応えも残さず、柄が二つに分かれる。
切断された先端が、遅れて床へ落ちた。
カラン……
乾いた音が、やけに大きく響く。
雫は即座に後退する。
追う結月。
揺れる刃が、左右に走る。
暗黒の軌跡。
紙一重で躱す。
頬をかすめる風。
切れた髪が、空中に散る。
一歩でも遅れれば、首が飛ぶ。
そんな間合い。
――その瞬間。
間に割って入る影。
朔夜。
ふらつく足。
それでも、退かない。
母と雫の間へ、自分の身体を差し込む。
突き出される酔闇。
迷いなく迫る切先。
死角もない。
猶予もない。
間に合わない。
誰もがそう思う速度。
だが――
朔夜の指が揃う。
人差し指と中指。
迷いなく、空間をなぞる。
見えない線を引くように。
「一線」
バチンッ!!
衝撃。
酔闇の刃が、見えない境界に弾かれる。
空気が震える。
透明な壁のようなものが、一瞬だけ光を帯びる。
衝突の余波で、床に細かな亀裂が走った。
ピシピシと、白い廊下に罅が広がる。
「邪魔をするなぁ――!!」
初めて。
結月の声に、怒気が混じる。
濁った酔いの奥から、剥き出しの感情が噴き出す。
揺らいでいる。
酔い切れていない。
だからこそ、怒る。
朔夜は、即座に境界を解いた。
長くは保てない。
分かっている。
自分の限界も。
この力の癖も。
まだ未熟だ。
だが――
“どう使えば誰かを守れるか”は、もう理解し始めている。
「……っ」
踏み込もうとする。
だが。
身体が、止まる。
拳が、握れない。
相手は――母だ。
ようやく触れられた存在。
ようやく届いたかもしれない人。
殴れるはずがない。
一瞬の躊躇。
そのわずかな停止が、命取りになる。
その隙を埋めるように。
ザッ――!
雫が背後から飛び出す。
朔夜と入れ代わる。
断たれたモップの残りを、槍のように突き出す。
狙いは顔ではない。
剣でもない。
体勢を崩す一点だけ。
結月の脚が跳ね上がる。
蹴り。
鋭い。
正確。
モップが弾かれる。
宙を舞う。
バリンッ!!
次の瞬間。
天井の照明が砕け散った。
火花が弾ける。
ショート。
青白い電流が、天井から壁へ、壁から床へと這い回る。
ビリビリと空気が震える。
焦げた臭い。
焼ける音。
その一瞬。
雫の指が動く。
親指と人差し指で、小さな円を作る。
狙いを定める目。
その円に、結月を納める。
「霧雨」
ブァッ――
濃霧が、結月を包み込んだ。
細かな雨粒が一気にまとわりつく。
髪が濡れる。
衣服が濡れる。
肌に、均一に水が張り付く。
まるで、薄い膜を一枚重ねたように。
「水……?」
困惑する結月。
振り払おうとする。
腕を振るう。
だが、水は落ちきらない。
霧のように細かく、肌へ衣服へとまとわりつく。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
意識が逸れた。
ドンッ!!
雫の体が、結月にぶつかる。
肩から。
全身を使って。
渾身の体当たり。
技でも、型でもない。
押し切るためだけの衝突。
吹き飛ばされる結月。
そのまま――
バリバリバリ――ッ!!
ショートした照明へ、身体が叩きつけられる。
電流が、一気に駆け巡る。
濡れた衣服。
濡れた肌。
そこを通って、青白い稲妻が暴れる。
結月の身体が痙攣する。
闇が弾ける。
酔闇の黒が、火花の中で不安定に揺れる。
ドダンッ!!
床へ崩れ落ちる。
重い音。
静寂。
煙の臭い。
焦げた匂い。
誰も、すぐには動けない。
だが――
「私には……酔うことしか……」
結月が、なお立とうとする。
震える手が床を掻く。
指先が、酔闇を探す。
終わっていない。
まだ、終われない。
それしか残っていないから。
バンッ!!
頭上の照明が、さらに爆ぜる。
火花と破片が降り注ぐ。
鋭いガラス片。
焼けた金属片。
容赦なく落ちてくる。
その瞬間。
「一線」
朔夜の声。
結月の上に、境界が展開される。
淡く。
青白く。
透明な膜のような隔たり。
静かな壁。
パチパチパチッ!
火花が弾かれる。
ガラス片が、見えない面に当たって跳ねる。
守るための境界。
傷つけるためではない。
閉じ込めるためでもない。
ただ、降りかかるものから守るための一線。
「なっ……何を……」
結月の声が揺れる。
理解できない、という顔。
どうして、守るのか。
どうして、止めを刺さないのか。
どうして、まだ手を伸ばすのか。
分からない。
分かるはずがない。
闇の中にいる者には。
朔夜が、ゆっくりと跪く。
酔闇の残滓が、足元で揺れている。
まだ危険は消えていない。
それでも、止まらない。
一瞬だけ、迷いがよぎる。
怖い。
これが罠かもしれない。
拒まれるかもしれない。
だが――
それでも。
抱き締めた。
強く。
逃がさないように。
壊れないように。
震える身体ごと、包み込むように。
「家族を守る、おまじない」
耳元で、静かに囁く。
幼い日の記憶。
月を見上げた夜。
母の声。
何度も聞いた言葉。
忘れたくなくて、ずっと抱えていた言葉。
結月の呼吸が、止まる。
遠い記憶が、蘇る。
月を見上げた夜。
小さな手。
隣で見上げていた幼い命。
守りたかったもの。
失ったと思っていたもの。
「……朔夜……」
声が、崩れる。
枯れたはずの涙が、頬を伝う。
熱い。
それは痛みではない。
苦しみでもない。
温もりだった。
盲いた瞳から、それでも零れていく。
震える手が、朔夜の頬に触れる。
探るように。
確かめるように。
本当にここにいるのかと。
失っていないのかと。
二度と離したくないと願うように。
「成長したあなたを……見たかった……」
もう、見ることはできない。
その目では。
けれど。
感じることはできる。
腕の中の鼓動。
伝わる体温。
浅くても、確かな呼吸。
生きている命。
ここに在る命。
それは――光だった。
誰かを焼く光じゃない。
奪うための光でもない。
闇を否定するための光でもない。
ただ、失いたくないものを照らす光。
未来へ繋がる、かすかな光。
――その瞬間。
酔闇が、わずかに揺れた。
抵抗するように。
執着するように。
闇が、最後の未練を引きずるように震える。
だが――
音もなく、霧散した。
さらさらと。
夜が明ける前の霧のように。
跡形もなく。
ジャリン。
ジャリン。
微かな鎖の音が、遠ざかっていく。
見届けたかのように。
闇が、ほどける。
廊下に残るのは、
雨の匂いと、静かな光だけだった。
朔夜は、結月を抱いたまま、ゆっくりと目を閉じる。
二十年の空白を、埋めるように。
失われた時間すべてには届かなくても。
この一瞬だけは、確かに家族だった。




