1話【逢魔時】
ブロブロブロブロ――
低く唸るエンジン音が、トラックの骨組みを震わせる。
振動が床から足裏へと伝わり、心臓の鼓動に重なった。
白い街並みが、風のように後方へ流れていく。
「くそっ! しつけー奴等だ!」
一鉄がバックミラーを睨む。
そこに映る赤色灯。
規則正しく回転するその光は、まるで白夜の都そのもののように冷酷だった。
逃がさない。
どこまでも追ってくる。
そんな意思すら感じる。
「あそこの高速道路に入って」
雫が短く告げる。
一鉄は躊躇なくハンドルを切った。
バキンッ!
料金所のバーがへし折れ、白い破片が宙に舞う。
トラックがそのまま突っ込む。
続いて、
ファン。ファン。ファン。
装甲車も、迷いなくゲートを突破してきた。
執念のように。
「一鉄さん。飲み物ありませんか?」
緊迫した空気の中、雫が唐突に言った。
「寝台のリュックの中だ!」
一鉄は怒鳴り返しながら、さらにアクセルを踏み込む。
エンジンが唸る。
車体が揺れる。
朔夜は揺れる車内で踏ん張り、寝台のリュックへ手を伸ばした。
ペットボトルを掴む。
体勢を崩しかけながら、前へ渡す。
「ありがとう」
雫は受け取ると、躊躇なく一気に飲み干した。
まるで身体に水分を溜め込むように。
喉を鳴らす音が、妙に生々しい。
空になったボトルを紡へ渡す。
そして、乱れた髪をひとつに束ねた。
その所作だけで、空気が変わる。
次の瞬間。
助手席の窓が、開かれた。
ゴォォォッ――!
猛烈な風が、一気に車内へ流れ込む。
紡の髪が大きく舞う。
視界が乱れる。
服がはためく。
「何するの!?」
紡が叫ぶ。
だが、その声さえ風に千切られていく。
「大丈夫だから」
雫は短く答えた。
そして、そのまま上半身を窓の外へ乗り出す。
風圧で服が激しく暴れる。
身体ごと持っていかれそうになる。
それでも、目は逸らさない。
指で円を作る。
先頭の装甲車を、その中へ収める。
「――霧雨」
ブワッ!!
一瞬で、高速道路の後方が白く塗り潰された。
霧。
いや、雨粒を含んだ濃密な白。
視界が、丸ごと喰われる。
キキィィィ――!!
急ブレーキの悲鳴。
濡れた路面。
奪われた視界。
ドカンッ!
ドドンッ!
追突音が連鎖する。
赤色灯だけが霧の中で狂ったように回り、やがてそれすら見えなくなった。
雫が車内へ戻る。
息を整えながら、シートへ身体を預ける。
「どう?」
渇いた声。
疲労はある。
だが、その口元にはかすかな自信が滲んでいた。
「すげぇ! やるじゃないか!」
一鉄が叫ぶ。
バックミラーには、霧の中で立ち往生する車列が映っていた。
「このまま進めば、今は使われていない第9輸送道に繋がるわ」
雫が続ける。
「鉄塔の光が届かない場所まで行けば、光統院も簡単には追ってこれないはずよ」
その声は冷静だった。
興奮も、恐怖も、表に出さない。
ただ、必要なことだけを言う。
トラックは走る。
白夜の都を背にして。
光に塗り潰された街から、離れていく。
――――
どれほど走ったのだろう。
やがて、遠くの鉄塔群が小さくなっていく。
空にも、変化が生まれていた。
白濁した空の端に、かすかな橙色が滲み始める。
この都では、決して見えなかった色。
「ねえ……あれ」
紡が呟くように言って、指を差した。
水平線まで伸びる輸送道の先。
そこにあったのは――
赤く滲む太陽。
白夜の都では、強すぎる人工光に掻き消されていた色。
本物の夕焼け。
雲が焼ける。
空が溶ける。
橙が、赤が、紫が、静かに混ざり合っていく。
あまりにも綺麗で。
あまりにも遠い。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
ただ、見ていた。
失われていたものを、ようやく思い出したように。
ドドド……
追手がいないことを確認し、一鉄はゆっくりとエンジンを切った。
重い唸りが止む。
急に訪れる静けさ。
耳が、かえって痛いほどだった。
ドアを開ける。
外の風が、流れ込む。
冷たい。
だが、白夜の都の人工的な冷たさとは違う。
どこか、やわらかい。
生きている風だった。
四人はトラックから降りる。
最初に感じたのは――静けさ。
風の音しかない。
いや。
それすら、おかしい。
生き物の気配が、一つもない。
虫の羽音も。
鳥の声も。
草を鳴らす小さな命の気配も。
何もない。
紡が小さく息を呑む。
そして、次に気づく。
空気が重い。
淀んでいる。
肺の奥に、鈍く沈むような感覚。
上ばかり見ていた四人は、ゆっくりと視線を下ろした。
盛土の上の輸送道から、周囲を見渡す。
そこに広がっていたのは――
壊れた大地だった。
採掘の大穴が、いくつも口を開けている。
禿げ山は無残に削られ、地層が剥き出しになっている。
川は茶色く濁り、泡立ち、流れるというより淀んでいた。
草木は痩せ、色を失い、地面そのものが疲れ果てている。
死んでいる。
自然が、完全に搾り取られていた。
「……っ」
朔夜が、こめかみを押さえた。
頭の奥に、声が刺さる。
悲鳴。
叫び。
言葉にならない、苦痛のうねり。
大地そのものが、泣いている。
耳ではなく、身体の奥へ直接流れ込んでくるような声だった。
同じものを、雫も感じていた。
顔をしかめる。
目を細める。
「白夜の都を維持するために……」
雫が小さく呟く。
「周りの自然を壊して、資源を供給しているらしいわ」
その言葉は、事実を述べているだけのはずなのに、どこか吐き捨てるようでもあった。
「そんな……」
紡が口元を押さえる。
美しい空と。
壊れた大地。
その落差が、あまりにも残酷だった。
沈みゆく夕日が、全てを赤く染めていく。
まるで――血のように。
やがて、橙の空に黒が混ざり始める。
色と色の境界が、曖昧になる。
昼でもない。
夜でもない。
何かが切り替わる、わずかな狭間。
逢魔時。
昼と夜の境界。
人ならざるものが、最も濃くなる刻。
風が、止まる。
空気が、沈む。
沈黙。
嫌な静けさが、じわじわと肌に貼りつく。
――来る。
グギギ……
闇の奥から、何かが這い出てくる。
影のような塊。
地面と溶け合う黒。
輪郭は定まらない。
だが――確かに、そこに“在る”。
都で遭遇したものとは、明らかに違った。
薄くない。
ぼやけてもいない。
濃い。
重い。
そして――禍々しさに満ちている。
闇そのものが、意思を持って這い出してきたような存在。
白夜の外。
本来、排除されることのなかった闇。
守る鉄塔もない。
届く光もない。
光統院もいない。
ここでは、誰も夜を消してくれない。
魍魎が、現れる。
本来の“夜”が、始まる。




