2話【呼応】
夕日が、禿げ山の向こうへ沈みかけている。
橙が、ゆっくりと黒へ溶けていく。
空の色が混ざり合い、光と闇の境界が曖昧になっていく。
――逢魔時。
昼でもなく、夜でもない。
どちらにも決めきれない、不安定な時間。
何かが生まれるには、十分すぎる刻だった。
ベチャ……
ベチャ……
湿った何かを踏み潰すような音が、足元から響く。
ブォ――
黒く濁った地面が、呼吸するように膨らんだ。
生暖かい風が、肌へまとわりつく。
腐った熱気。
淀んだ臭気。
吐き気を催すような瘴気が、じわじわと肺の中へ入り込んでくる。
這い出してきた魍魎が、ゆっくりと近付いてくる。
白夜の都で見たものとは、明らかに違う。
薄くない。
ぼやけていない。
濃い。
重い。
粘ついている。
まるで、この土地そのものが腐敗し、意思を持って起き上がったかのような存在。
瘴気を纏った魍魎。
「中に!」
雫が、三人の前へ出る。
短く、鋭い声。
迷いのない判断。
ためらう余地を与えない声だった。
魍魎の標的は明確だった。
――魍魎は、怪人を襲わない。
その事実を、朔夜は一瞬で思い出す。
ならば、自分は前に出るべきだ。
雫と並ぶ。
守られる側ではなく、守る側に立つ。
「紡も早く!」
朔夜は視線を魍魎から逸らさないまま叫ぶ。
声に焦りが滲む。
早く中へ。
間に合え。
その願いを込めて。
だが――
「……朔夜」
紡の声は、低く、震えていた。
嫌な予感が、背筋を冷たく這う。
朔夜は振り向く。
紡は俯いたまま、動けずにいる。
その視線を辿る。
足元。
そこにあったのは――黒。
いや、斜陽で伸びた影。
紡の影の中から、ぬるりと腕が伸びていた。
黒い腕。
粘つく闇の塊のようなそれが、足首へ絡みついている。
逃がさないように。
沈めるように。
獲物を見つけた捕食者のように。
その手が、紡の足首を掴んでいた。
「これを使え!」
一鉄の声が飛ぶ。
次の瞬間。
ドライバーが、弧を描いて空を裂いた。
朔夜は反射で跳ぶ。
考えるより先に身体が動く。
空中でそれを掴み取る。
着地と同時にしゃがみ込み、迷いなく影へと突き立てた。
ギィィ……
金属が、柔らかい肉にも泥にも似た何かを刺す感触。
不快な抵抗。
影の腕が、びくりと痙攣する。
掴んでいた力が緩む。
魍魎の手が、離れた。
その瞬間。
朔夜は立ち上がる。
紡を抱き上げた。
引き剥がすように。
影から切り離すように。
奪い返すように。
そのまま大きく後方へ跳ぶ。
距離を取る。
そして――
トラックの荷台の屋根へと着地した。
ズズンッ!
黒い地面から、魍魎の上半身が這い出る。
ぬらりと伸びる腕。
細く。
長く。
槍のように鋭く。
一直線に突き出される。
狙いは――朔夜の腕の中の紡。
『紡を守る』
怒りではない。
憎しみでもない。
ただ、それだけだった。
守りたい。
失いたくない。
その願いだけが、朔夜の中に残る。
その瞬間――
世界が、静かになった。
音が消える。
風が止まる。
空気の揺れさえ止まる。
時間だけが、わずかに遅れる。
そして――声が流れ込む。
『一線』
命令ではない。
導きでもない。
優しさも、厳しさもない。
ただ、そこに在るもの。
大地の底に。
空気の流れに。
境界そのものに、最初から刻まれていたような響き。
それが、朔夜の内側の“何か”と重なる。
指が動く。
導かれるように。
人差し指と中指を揃える。
そのまま、目の前の空間へ向ける。
迷いは、ない。
円を描く。
空間そのものを撫でるように。
世界へ線を引くように。
「……一線」
言葉が落ちた瞬間。
空気が変わった。
シュン――
円の内側が、淡く光を帯びる。
青白い。
透き通るような光。
光統院の白とは違う。
刺すような冷たさはない。
拒絶するための光でもない。
ただ、そこに“隔たり”を生む光。
越えてはならないものを、静かに示す光。
ガグンッ!!
魍魎の腕が、見えない何かに叩き付けられる。
衝撃が、空間を震わせた。
闇が弾ける。
火花のように、黒い粒子が散る。
腕がひしゃげ、ねじ曲がる。
まるで、硬質な壁に真正面から激突したかのように。
そこには確かに――境界があった。
空間に貼られた円。
行き交うことのできない隔たり。
領域の断絶。
踏み越えられない。
グギギギギ……
魍魎が唸る。
怒りとも、苦痛ともつかない声。
何度も、何度も、空間を叩く。
叩く。
叩く。
そのたびに、円の輪郭が一瞬だけ青白く浮かぶ。
だが――通らない。
越えられない。
その事実に苛立つように、闇が震える。
衝撃が、屋根から地面へと伝播する。
トラックの車体が軋む。
「……朔夜?」
腕の中で、紡が震えながら見上げる。
朔夜自身も、息を呑んでいた。
自分が何をしたのか、まだ理解しきれていない。
どうしてできたのかも分からない。
ただ――
一つだけ、はっきりしていることがある。
境界を越えさせない。
守るべきものを、こちら側に残す。
それだけは、確かだった。
雫が振り向く。
その目に宿るのは、驚き。
そして――確信。
「……呼応したのね」
小さく、しかしはっきりとした声。
守りたいという願い。
自然の声。
その二つが重なり、朔夜の内側で力として立ち上がった。
だが――
ベチャ。
ベチャ。
音が増える。
一つではない。
二つでもない。
地面が、うねる。
盛り上がる。
膨れ上がる。
黒が、次々と形を持ち始める。
外の魍魎は違う。
都のそれよりも、濃い。
深い。
そして――尽きない。
まるで夜そのものが、こちらへ流れ込んでくるように。
やがて、最後の夕光が沈む。
夜の帳が、完全に落ちる。
青白い円の向こう。
魍魎達が、土手を這い上がってくる。
一体ではない。
数でもない。
――“群れ”だ。




