4話【訪問者】
コト。コト。コト。
味噌汁を温める音が、静かな朝に溶けていく。
鍋の縁から立ち上る湯気が、部屋の空気をやわらかく満たしていた。
白ではない、やさしい朝。
痛みも、恐怖も、ほんの少しだけ遠ざかるような朝。
その中で――
紡と雫は、台所に並んで立っていた。
「それでね、昨日――」
紡が何かを話し、
雫が頷く。
「うんうん、紡らしいわ」
小さな笑い声。
たったそれだけのやり取りが、
この家の朝を、ちゃんと“日常”にしていた。
その光景を、部屋の入口から朔夜は見ていた。
「あの……」
遠慮がちに、顔を出す。
味噌の香りが腹の奥をくすぐる。
きゅる、と小さく腹が鳴りそうになって、朔夜はわずかに口をつぐんだ。
一歩、踏み出しかけて――止まる。
自分が、ここにいていいのか。
その迷いが、足先に出ていた。
紡が振り向く。
雫も、気づく。
二人の視線を受けて、朔夜は少し気まずそうに口を開いた。
「僕の服は……」
風呂から上がった後、見当たらなかったことを思い出す。
「今、洗ってる」
雫が、何でもないことのように答える。
「下着も……」
「そうよ」
当たり前のように頷く。
「うちに男物の服ないから、代わりに私のパジャマ置いといたけど」
「はぁ……」
逃げ道は、ない。
朔夜は観念したように部屋へ入る。
花柄のパジャマの下だけを、無理やり履いた姿。
上はサイズが合わず、手に持ったまま。
細身ではあるが引き締まった体躯に、その柄だけが妙に不釣り合いだった。
一瞬の、静寂。
――ぷっ。
先に吹き出したのは、紡だった。
肩を震わせる。
そのあとを追うように、雫も口元を押さえて笑う。
「似合ってる、意外と~」
「似合ってないです」
即答。
その返しが、また可笑しくて。
紡が笑う。
雫も笑う。
つられて、朔夜も少しだけ笑った。
その空気は、あまりにも普通だった。
昨夜まで、
血と光と悲鳴の中にいたことが、嘘みたいに。
――まだ、やり直せる。
その光景を見つめながら、朔夜は思う。
共存は、空想ではないのかもしれない。
こうして同じ朝を囲むことは、
奪われるだけの夢ではないのかもしれない。
背に残る、縦一文字の傷。
まだ意味を持たない、“境界線”。
それでも確かに――
自分は何かを背負い始めている。
ブロロン……
低く、腹に響くエンジン音が、家の前で止まった。
ぴたり、と空気が止まる。
朔夜の表情が、わずかに変わった。
『……この音』
耳が、先に反応する。
『一鉄さんの……』
あの無骨なエンジン音。
一度聞けば、忘れるはずがない。
ピンポーン。
インターホンの音が、妙に大きく響く。
三人の視線が、同時に玄関へ向いた。
「はい……?」
紡が応答する。
その声は、わずかに硬い。
――沈黙。
スピーカー越しに、くぐもった声が落ちてくる。
やけに近い。
耳元で、直接囁かれたような錯覚。
「ゴホッ。は……配達だ」
短い。
それだけの言葉。
だが――
妙な間。
不自然な咳払い。
知っているはずのない違和感。
雫の目が、すっと鋭くなる。
朔夜の頭の奥が、微かに脈打った。
――玄関前――
ガチャリ。
次の瞬間――
ドンッ!!
扉が、内側へ弾け飛ぶ。
木片が宙を舞い、
蝶番が悲鳴を上げ、
裂けた空気が一気に家の奥へ流れ込んだ。
「突入!」
号令と共に、光統院の隊員が雪崩れ込む。
ダダダッ――
土足のまま踏み荒らす。
部屋へ踏み込む。
収納を開ける。
扉を蹴り飛ばす。
クローゼットを壊す。
視線が、隅々まで走る。
だが――
誰もいない。
あるのは、
ついさっきまでここに人がいた痕跡だけだった。
テーブルの上には、まだ湯気の残る味噌汁。
三つ並んだ茶碗。
箸の向きさえ、生活の途中を示している。
温もりだけが、置き去りにされていた。
「怪人二名と反逆者一名、確認できません」
報告を受け、
頼光がゆっくりと部屋へ入る。
床に散った木片を、わざと踏みながら。
「先を越されましたか」
口角は、上がっている。
だが、
目だけが冷たい。
窓の外を、一瞥する。
遠く、
角を曲がる大型トラックの影が、ほんの一瞬だけ視界を掠めた。
「……なるほど」
わずかに、笑みが深くなる。
ガタガタ……ガタガタ……
洗濯機の回る音が、場違いなほど生活的に響く。
壊された玄関。
散った木片。
湯気の残る味噌汁。
その中で、洗濯機だけが、何も知らないように動いていた。
背後に立つ綱。
ホバーブーツは履いていない。
昨夜の雨で故障したのか、ただ静かに立っている。
その隣で、端末を操作していた男が声を上げた。
「雨の怪人……あった! 雫かぁ~可愛いじゃん」
軽薄な声。
画面をスクロールしながら、面白がるように言う。
「へぇ~、あの施設から逃げたんだ」
「季武。見せてくれ」
綱が端末を受け取る。
無機質な視線で、記録をなぞる。
「……顔を変えたか」
ガシャンッ!!
次の瞬間、
頼光の蹴りがテーブルを弾き飛ばした。
味噌汁が、床にぶちまけられる。
汁が広がり、具が散り、
白い湯気が虚しく揺れた。
さっきまでそこにあった朝が、
一瞬で踏み潰される。
「あれ程、痛め付けたのに……そう来ましたか」
頼光が、一歩踏み出す。
「一鉄――人間だからと、甘く見ていましたよ」
その笑みが、わずかに歪む。
「面白い……」
低く。
「面白いですねぇ……」
ゆっくりと、
その状況そのものを味わうように言葉を転がす。
視線が、細くなる。
「これからは――」
一拍。
その声だけが、妙に静かだった。
「怪人二名と、反逆者二名です」
冷たく、確定する。
「間違えないように」
その言葉は、命令だった。
逃げ場を一つ残らず潰し、
線を引き直し、
全員を“敵”へ塗り替えるための宣告だった。




