3話【自然の声】
カラ……カラ……
洗面器の冷水に浮かぶ氷が、縁に当たって静かに鳴る。
小さな音だけが、部屋の静寂を保っていた。
グッ。
雫はタオルを水に沈め、強く絞る。
指の節が白く浮かぶ。
冷たさが、掌に食い込む。
現実を、確かめるように。
その痛みが――思考の揺らぎを抑えた。
ゆっくりと、朔夜の額に手を伸ばす。
その瞬間。
「……あなたは?」
掠れた声。
雫の手が止まる。
開かれた瞳。
こちらを見ている。
目が、合った。
身体を起こそうとするのを、そっと肩に触れて制する。
唇に、人差し指を当てた。
「静かに」
視線で、足元を示す。
朔夜が、ゆっくりと目を動かす。
ベッド脇の椅子。
そこに――紡がいた。
上半身をベッドに預けたまま、眠っている。
頬には、乾ききらない涙の跡。
握りしめた拳は、まだわずかに力を残していた。
「さっきまで看病してたけど……いろいろあって、疲れたみたい」
雫の声は、柔らかい。
紡の背に掛けられたブランケット。
乱れた髪を、そっと避ける指先。
その一つ一つに、“守る側”の温度が滲んでいた。
朔夜は、頭だけを動かす。
部屋を見渡す。
甘い香り。
柔らかな色のカーテン。
壁に並ぶ、幼い頃の写真。
そして――
星の絵。
何枚も、何枚も。
白夜しか知らないはずの世界に描かれた、“夜”。
ここが、紡の部屋だと理解する。
「……ただいま」
眠る紡へ。
音にならない声が、零れた。
その瞬間――
胸の奥で、“何か”がざわついた。
あの闇。
完全には、消えていない。
底に、沈んでいる。
だが――
それでも。
朔夜には、帰る場所がある。
その事実が、意識を繋ぎ止めた。
「私は紡の養母で、雫と言います」
改めての名乗り。
朔夜は、ゆっくりと頷く。
「……あれから、何があったか教えてください」
声を落とす。
紡を起こさぬように。
雫は小さく頷き、ベッドの縁に腰を下ろした。
――
救出の経緯を語る。
光。
戦闘。
逃走。
その一つ一つが、短く、確かに紡がれる。
――
「……助けてくれて、ありがとうございます」
話を聞き終え、朔夜は頭を下げた。
「良いの。紡を助けに行ったついでだから」
軽く言う。
だが――
その目の奥には、まだ戦闘の熱が残っていた。
沈黙。
カラン……
氷が崩れ、ゆっくりと溶けていく。
朔夜は天井を見上げたまま、ぽつりと問う。
「どうしたら……神通力を使えるようになるんですか?」
雫は、わずかに目を細めた。
遠い記憶を探るように。
「……純粋な願いを、持ち続けると」
ゆっくりと。
確かめるように。
「自然が……応えてくれる」
言葉は曖昧。
だが、その響きには確信があった。
「私はずっと……子供が欲しいって願ってた」
静かな声。
「誰にも奪われない、“普通”が欲しかった」
朔夜の指が、わずかに動く。
「……願い……」
脳裏に、あの瞬間が蘇る。
――回想・屋上――
『助けなきゃ!』
考えるより先に、身体が動いた。
あの時――
頭痛が、消えていた。
締め付けるような痛みが、嘘みたいに。
代わりに――
胸の奥で、何かが脈打った。
熱でもない。
鼓動でもない。
ただ。
“行け”と告げるもの。
『――行け』
理由はない。
だが、抗えなかった。
抗うという発想すら、なかった。
――紡の部屋――
「……あれが、自然の声なのか」
初めて、名が与えられる。
理解が、形になる。
「……背中の傷は?」
もう一つの疑問。
致命傷だったはずの傷。
雫は、机の上の小瓶を手に取る。
中身は、空。
光にかざすと、わずかに歪む。
「光統院に捕まってた時……逃がしてくれた人から貰ったの」
指先で、転がす。
「御守り代わりだったんだけど……」
少し考え、苦笑する。
「バイオ……なんとかって言ってたかな」
一拍。
「“ミクロの救命医”って」
朔夜は、静かに息を呑む。
「傷に触れた瞬間、薬が動いたの」
淡々と。
だが、確実に異質な話。
「生き物みたいに……身体に入り込んで」
沈黙。
――科学。
朔夜が、嫌悪してきたもの。
――だが。
それに、救われた。
「その人に言われたの」
雫の指が、火傷の痕をなぞる。
「強く生きろって」
小さく息を吐く。
「だから武術も習った。紡を守れるように」
「……ありがとうございます」
朔夜は、もう一度礼を言った。
窓の外。
変わらず、白い光。
均一で、逃げ場のない世界。
だが――
ここには、影がある。
人がいる。
温度がある。
ピピッ。
時計が、朝を告げる。
その時――
「……朔夜」
小さな声。
紡が、目を開ける。
視線が合う。
一瞬の沈黙。
そして――
不安が、溶ける。
「お帰り」
その一言で。
部屋の空気が、ほんの少しだけ――やわらいだ。




