1話【血の告白】
ピ――
静寂を裂くように、ケトルの電子音が鳴った。
戦闘の余熱が残る部屋に、その音だけが不自然に生活的だった。
シンクには熔けて変形した包丁。
雫は無言でスイッチを切る。
濡れた黒髪を、乱暴にタオルで拭った。
水気は取れても、血と汗の匂いは肌に貼りついたままだ。
紡は椅子に座ったまま、頭からタオルを被っている。
濡れた髪先から、水滴がぽたぽたと床に落ちていた。
肩が、小さく震えている。
寒さか。
恐怖の余韻か。
自分でも分かっていない。
雫は湯気の立つカップを二つ、静かに並べた。
白い湯気が、ゆっくりと天井へ溶けていく。
カウンター越しに、二人が向き合う。
……沈黙。
時計の秒針だけが、やけに大きく響いた。
「……ごめん。驚いたよね」
ようやく、雫が口を開く。
わずかに掠れた声。
紡は顔を上げない。
返事もない。
「上司の方から、紡が事件に巻き込まれたって……連絡が来て……」
言葉を探す。
間が空く。
「その……居ても立っても居られなくて」
小さく笑おうとして――失敗する。
口元が、ぎこちなく歪むだけだった。
紡の手が、タオルの下で強く握られる。
擦りむいた手のひらが、じんじんと痛んだ。
遅れてやってきた現実の痛み。
「どうして……言ってくれなかったの?」
やっと絞り出した声。
細く、掠れていた。
「幼稚園から、ずっと一緒に暮らしてたのに……」
その言葉に、雫の肩がわずかに揺れる。
「それは……」
喉の奥で言葉が詰まる。
視線が、カップへと落ちた。
「私が……怪人だと知ったら……嫌だろうなって……」
絞り出された言葉。
――その瞬間。
紡の呼吸が止まる。
脳裏に蘇る。
罵声。
侮蔑。
距離を取る足音。
排除の空気。
捕獲という言葉。
――怖い。
ほんの一瞬、その感情がよぎる。
だが。
紡は強く首を横に振った。
「……私は違う」
タオルが、するりと肩から滑り落ちる。
涙で濡れた瞳。
真っ直ぐに雫を射抜いた。
その視線に、雫は言葉を失う。
「それに……」
視線を逸らす。
指先でカップの縁をなぞる。
立ち上る湯気が、頬に触れても気づかない。
「今回みたいに……紡にも危険が及ぶかもしれなかったし……」
言葉が途切れる。
沈黙が落ちる。
そして――
「私は……子供を産みたかった」
ぽつり、と落ちた本音。
苦悩の告白。
空気が止まる。
「でも……私が産んだ子供は、怪人の血を受け継ぐ」
唇が震える。
「そうなれば……光統院に捕まって……」
言葉が続かない。
雫の手が、無意識に自分の腕を掴む。
そこには、古い火傷の痕。
光統院に焼かれた過去。
白い部屋。
拘束具。
泣き声。
焼ける臭い。
血の味。
記憶が蘇る。
肩が大きく震え始める。
「……子供には、そんな思いはさせたくなかった」
口元を押さえる。
涙が、ぽたぽたと落ちていく。
「だから……諦めようとしてたの……」
――長い沈黙。
雫は、深く息を吸う。
ゆっくりと吐く。
そして、顔を上げた。
その目は、母親の目だった。
「そんな時……施設の柵越しに、紡を見つけたの」
紡の呼吸が、止まる。
鉄柵。
向こう側。
膝を抱える、小さな自分。
こちらを見つめる、誰かの影。
点と点が、繋がる。
「……私を見つけてくれた」
震える声。
「私を見ていてくれた雫さん……」
「朔夜を見てくれていた一鉄さん……」
「私と朔夜は同じ……なんだ」
思わず、言葉が漏れる。
頭の中で、雫の言葉と朔夜の笑顔が重なる。
――見て欲しかった。
――認めて欲しかった。
――選んで欲しかった。
胸の奥が、一気に溢れ出す。
「勝手に運命感じちゃって……」
雫は涙を拭いながら、少しだけ笑う。
「怪人を隠して、引き取ることにしたの」
一拍。
「養子なら……血は受け継がれないから……」
そして――
「……この子だけは、守れるって思った」
その言葉は静かで。
揺るがなかった。
紡は、ゆっくりと立ち上がる。
椅子が小さく軋んだ。
言葉が出ない。
喉が詰まる。
それでも、無理やり絞り出す。
「……ありがとう」
一度だけ。
それ以上、言葉が続かない。
涙で歪んだ視界の中で、雫を見る。
「……ありがとう……!」
声にならない嗚咽が混ざる。
二度、救ってくれた人へ。
血を越えて、選んでくれた人へ。
雫は、静かに微笑む。
そっと手を伸ばす。
紡の涙に触れようとする。
その時――
「……っ」
雫の表情が歪む。
切れ長の目を強く閉じる。
蟀谷を押さえる。
呼吸が乱れる。
空気が変わる。
「自然が……泣いている……」
低く、震えた声。
苦悶の雫。
その響きは、どこかで聞いたものと、同じだった。
紡の背筋に、ぞくりとしたものが走る。
部屋の温度が、一気に下がる。
湯気だけが、何も知らないように、ゆっくりと揺れていた。




