第9話 泣いてください。仕組みは私が作ります
王都の中央教会から突きつけられた『越権治癒による処分対象』という重い通告が、私の肩にのしかかっていた。
薄暗い辺境礼拝堂の長椅子に身を沈め、私は冷え切った両手をギュッと握りしめる。
また私は、自分の感情のままに動いて、取り返しのつかない問題を起こしてしまったのだろうか。
身体の奥底から湧き上がる悪寒と、魔力を急激に消費したことによる脱力感は、数日経ってもまだ抜けきっていなかった。
だが、身体の不調以上に私を苛んでいたのは、深い自責の念だ。
あの時、ヴィクトル司教が支配する巡回治癒院のテント前で、私はどうしても子供を見捨てることができなかった。
治癒の光を当て、高熱で痙攣する命を明日へ繋いだことに、後悔はない。
母親の安堵の涙と、子供の穏やかな寝息は、確かに本物だった。
けれど、結果として私は、教会の掟を再び破ったのだ。
王都の中央治癒院で、侯爵夫人より先に平民の子供を助け、「順番が違う」と大司教様に辺境へ追放されたあの日と、同じ過ちを繰り返してしまった。
「私がしたことは……間違っていたのでしょうか」
誰に問いかけるでもなく、ぽつりとこぼした声は、静まり返った礼拝堂の冷たい空気に吸い込まれて消えた。
私が勝手な越権行為に及んだせいで、理屈と法を盾にして私を庇ってくださったカイ様や、彼が仕えるレイゼル辺境伯家にまで、中央教会からの怒りの矛先が向いてしまうかもしれない。
そう考えると、胸の奥が冷たく締め付けられ、息をするのすら苦しかった。
膝の上に重ねた手の甲に、ポタリ、と温かい水滴が落ちた。
一度溢れた涙は、次々と視界を滲ませていく。
私は唇を強く噛み締め、一人で声を殺して泣き続けた。
「……こんな暗いところで、何をしているのですか」
不意に、背後から低く静かな声が響いた。
驚いて振り返ると、ステンドグラスから差し込む微かな月明かりを背に、カイ様が立っていた。
無駄のない黒い執務服からは、古い羊皮紙と、乾いたインクの匂いが微かに漂ってくる。
「カイ様……」
私は慌てて目元を擦り、涙を隠そうとした。
しかし、彼の鋭い灰色の瞳をごまかすことなどできない。
「申し訳ありません。……また、私が問題を起こしたのでしょうか。私のせいで、カイ様にまでご迷惑を」
震える声で謝罪する私を、カイ様は無言で見下ろしていた。
彼は隣に座って肩を抱いてくれるわけでも、「君は悪くない」と甘く優しい言葉で慰めてくれるわけでもない。
ただ、静寂の中で私の震えを受け止め、ひどく理知的な響きを持った声で、真っ直ぐにこう告げたのだ。
「泣いてください」
予想もしなかった言葉に、私はハッとして顔を上げた。
「あなたが泣いている間に、私は泣かずに済む仕組みを作ります」
その言葉は、単なる慰めではなかった。
ただの同情でもなかった。
彼は、私の涙を「無意味だ」とか「泣くな」と否定しない。泣くことを許してくれる。
その代わり、理不尽を嘆いて涙を流すことしかできない私の代わりに、彼が現実の『仕組み』を動かすと約束してくれたのだ。
祈りは証拠にならないから、彼が帳簿で証拠を作るように。
私が泣いている間に、彼が法と制度を組み立てて、もう誰もこんな理不尽な命の選別で涙を流さずに済む明日を用意してくれる。
「カイ様……っ」
それが、彼なりの不器用で、ひどく冷たくて、どうしようもなく温かい『守り方』だった。
私は両手で顔を覆い、今度は安堵と感謝の涙をぽろぽろとこぼした。
「処分が下るまで、まだ時間はあります。ヴィクトル司教が中央へ報告書を送り、正式な審問の場が設けられる前に、あの巡回治癒院の不正の構造を完全に暴き、証拠として王都へ突きつけます」
カイ様はそう言って、私に背を向けた。
「涙が枯れたら、執務室へ来なさい。あなたの記憶も、調査の手がかりとして使わせてもらいます」
静かな足音を残して、彼は歩き去っていく。
私はもう一度、膝の上で両手を強く握りしめた。
不思議と、先ほどまでの絶望的な自責の念は消え去っていた。
彼が切り拓いてくれる道の上に立ち、私も前へ進まなければならない。
涙を拭い、冷たい水で顔を洗ってから執務室へと向かうと、カイ様はすでに机いっぱいに資料を広げていた。
「あの治癒院で、あなたは『優先券』の存在を確認しましたね」
「はい。小さな硬い紙片のようなものでした。それを持つ者は、待合の列を無視して優先的に奥へ通されていました」
カイ様は頷き、一枚の書類を私の前に滑らせた。
「これは、領内の薬草商から押収した裏帳簿の写しです。巡回治癒院の神官たちが、不自然なほどの量の薬草を、相場よりもはるかに高値で買い上げている記録が残っていました」
「薬草を……?」
「治癒魔法は万能ではありません。魔法で一時的に症状を抑えた後、完治させるためには大量の薬草と休養が必要になる。優先券で金貨を巻き上げ、その金で薬草を買い集め、さらにそれを恩着せがましく分け与えて教会の権威を高めているのでしょう」
カイ様の淀みない推理に、私は息を呑んだ。
そして、ただ話を聞いているだけでなく、自分から机の上の帳簿の端に目を落とした。
まだ、複雑な計算や制度の裏側まではわからない。
けれど、文字の羅列の中から、『日付』や『納入数』といった項目を指でなぞり、自分なりに違和感を探そうと視線を動かす。
「私に、何かできることはありませんか。あの場所の空気を、祈りの不在を一番近くで感じたのは私です」
私の言葉に、カイ様は少しだけ目を細め、微かに口角を上げたように見えた。
「では、この証言録の整理を手伝ってください。昨日から、優先券を買わされた領民たちの話を内密に集めさせています」
「はい」
私は渡された束を受け取り、一枚ずつ丁寧に目を通し始めた。
そこに記されているのは、法外な金貨を要求され、泣く泣く家財を売り払って優先券を手に入れた人々の悲痛な記録だった。
読み進めるうちに、命の順番が金で買われることへの静かな怒りが、私の中で確かな形を持っていく。
調査を進めるうち、ふと、ある証言録に添付されていた一枚の押収品に目が止まった。
「カイ様、これは……」
それは、回収された『優先券』の控えの切れ端だった。
ただの紙切れではない。
その優先券の控えの隅には、見覚えのある小さな発行印が押されていた。




