第10話 金貨で買われた順番
優先券の控えの切れ端。その隅に押されていたのは、ひどく見覚えのある小さな発行印だった。
そこから芋づる式に、決定的な物証となる紙の束が、カイ様の執務机の上に次々と積み上げられていった。
私の曖昧な『祈りの不在』という感覚ではなく、確かなインクの染みと署名が、彼らの罪の輪郭を雄弁に語り始めていたのだ。
「優先券の販売記録。薬草商への不自然な発注書。そして、優先券と引き換えに多額の献金を行った貴族たちの紹介状です」
カイ様は、綺麗に分類された書類の束を長い指でトントンと揃え、冷たい灰色の瞳をわずかに細めた。
「あなたが足を使って集めてくれた、優先券を買わされた領民たちの証言録。そして、私が押収した薬草商の裏帳簿。点と点が、完全に線として繋がりました。ご苦労様でした」
「いえ、私はただ、皆さんの痛みの言葉を聞き取っただけですから」
カイ様の小さな、けれど確かなねぎらいの言葉に、私は首を横に振った。
彼が私をただ守られるだけの足手まといではなく、共に不正を暴き、証拠を組み立てる手足として認めてくれていることが、今の私には何よりも嬉しかった。
「準備は整いました。行きましょう。あなたが見つけた入り口を、出口へと繋ぐ時です」
カイ様が漆黒の外套を羽織り、分厚い革張りの台帳を小脇に抱える。
私たちは執務館を出て、冷たい風の吹く広場、あの巡回治癒団の巨大な白いテントへと向かった。
テントの前では、相変わらず絶望的な長さの列ができており、毛皮のコートを着込んだような身なりの良い者だけが、優先券を片手に次々と奥へと通されていた。
「ほう。処分待ちの身でありながら、のこのこと出歩くとは。無能聖女は恥という概念すら持ち合わせていないらしい」
私たちの姿を認めたヴィクトル司教が、あからさまな嘲笑を浮かべて出迎えた。
彼の周囲には取り巻きの神官たちが並び、私を蔑むような視線を向けている。
「それとも、あの越権治癒の謝罪にでも来たのかな? だが、もはや遅い。お前の処分は中央教会で決定される。ここでどれほど許しを乞おうと無駄なことだ」
「謝罪に来たのではありません」
私は彼の冷笑を真っ直ぐに見返し、怯むことなく静かに告げた。
その隣で、カイ様が一歩前へと進み出る。
「ヴィクトル司教。領内の治癒院営業許可を管理する辺境伯家として、あなたの不正な営業実態について、これより監査を行います」
カイ様は感情の欠落した声で告げると、手にした重厚な台帳を、冷たい風の中へバサリと広げた。
「な、なんだと……!? 我々は女神の慈悲を無料で施しているのだぞ! 不正などあるはずがない!」
「無料を謳いながら、裏では優先券という名の『命の順番』を売買しているではありませんか」
ヴィクトル司教の顔が、わずかに引きつった。
「そ、それは……教会を維持するための正当な献金に対する、当然の配慮だ! 教会の運営には莫大な金がかかる。少しばかり優遇したからといって、何が悪いというのだ!」
「少しばかり、ですか。では、その配慮の対価を、正確な数字で計算してみましょう」
カイ様は台帳のページを繰り、氷のように冷たく、そして鋭い声で読み上げた。
「この優先券一枚を裏で手に入れるために動いた額は、金貨十枚」
その金額を聞いて、周囲で順番待ちをしていた平民たちから、ざわめきと悲鳴のような声が上がった。
辺境の平民にとって、金貨十枚など、何年働き詰めでも稼げるかどうかわからないほどの途方もない大金だ。
「金貨十枚。薬草に換算すれば、三十束分にもなります」
カイ様は、テントの奥にこれ見よがしに積まれた薬草の山と、外で寒さに震える患者たちを交互に見やった。
「司教殿。この優先券一枚で、本来なら三十人の軽症者を救い、重症者の痛みを和らげることができるのです。あなたが金貨と引き換えに売ったのは、ただの便利な紙片ではない」
カイ様の灰色の瞳が、ヴィクトル司教を容赦なく射抜いた。
「この辺境で生きる平民たちの、治癒の順番そのものです」
言い逃れのしようがない数字と事実の刃。
「命の順番を売った」という明確な名指しの断罪に、ヴィクトル司教は絶句し、そのふくよかな顔面からサァッと血の気が引いていくのがわかった。
「ふ、ふざけるな……!」
ヴィクトル司教はこめかみに脂汗を滲ませながら、必死に反論の糸口を探して声を荒げた。
「証拠というなら、被害者はどこにいる! 優先券の仕組みに、ここの平民どもも納得して列に並んでいるではないか! 文句など、誰一人として言っていないぞ!」
確かに、広場に並ぶ人々は、優先券を持つ者が自分たちを差し置いて先に通されても、下を向いてじっと寒さに耐えるだけだった。
誰も怒りの声を上げず、泣き叫んで抗議する者もいなかった。
ヴィクトル司教は、その弱者特有の諦めの沈黙を、『納得している』のだと都合よく解釈していたのだ。
「……文句を言わなかったわけじゃありません」
その時、震えるような細い声が、広場の沈黙を破った。
人混みを掻き分けて進み出てきたのは、昨日、私が越権治癒を施したあの小柄な母親だった。
彼女の背中には、熱がすっかり下がり、穏やかな寝息を立てている小さな男の子がしっかりと背負われている。
彼女は私の隣まで来ると、ひび割れた手で、私の修道服の袖をそっと握りしめた。
「どうして、あんなに子供が苦しんでいるのに泣き叫ばなかったのかって……昨日、聖女様に聞かれましたよね」
彼女の潤んだ瞳が、私を見上げた。
あんなにも無表情で、張り詰めた糸のように乾ききっていた瞳から、今は大粒の涙がポロポロと止めどなくこぼれ落ちていた。
「私が……泣き叫んで絶望したら、腕の中で苦しんでいるこの子が、もっと不安になってしまうから。だから、必死に涙を堪えて、笑って、大丈夫だって、誤魔化すしかなかったんです」
その言葉に、私の胸は激しく打たれた。
感情を失っていたわけでも、理不尽に納得して諦めていたわけでもない。
彼女は、母親として我が子を安心させるためだけに、自分の泣く権利すら封じ込めていたのだ。
それが、彼女が『泣けなかった理由』だった。
痛みを我慢しているのは、決して痛くないからではないのだ。
「私たちは、金貨を持っていません。でも、命が痛いのは同じです。目の前で我が子の順番を奪われて、悲しくないわけがありません……っ!」
母親の涙ながらの悲痛な訴えに、周囲の平民たちも次々と顔を上げ、ヴィクトル司教へと静かな、けれど確かな怒りの視線を向け始めた。
冷たい風の吹く広場に、これまで抑えつけられていた民衆の熱が満ちていく。
もはや、教会の権威を盾にする彼を擁護する者は誰もいなかった。
「この証言と、押収された紙の証拠が、すべてを物語っています」
カイ様が、台帳をパタンと閉じて宣告した。
ヴィクトル司教は完全に孤立し、ブルブルと肩を震わせている。
「証拠、証拠と……っ! こんな辺境の末端の商人が作った偽造券など、私には関係のないことだ!」
彼は、あくまで優先券の発行を部下や商人のせいにして、自分だけは逃げ切ろうと無様な足掻きを見せていた。
だが、カイ様の周到な調査は、すでにその細い逃げ道すらも完全に塞いでいた。
カイ様は、執務室で見つけたあの優先券の控えの切れ端を、ヴィクトル司教の目の前に突きつけた。
「末端の商人の偽造などとは、言わせませんよ」
そこには、偽造などではない、はっきりとしたインクの痕跡が残されていた。
命の順番を売買していたその忌まわしい優先券の控えの隅には、他でもないヴィクトル司教自身の公式な『発行印』が、くっきりと押されていたのだった。




