第11話 治癒優先券を焼く日
冷たい風が吹き抜ける広場の中央で、山積みになった『治癒優先券』が、パチパチと音を立てて炎に呑まれていく。
それを取り囲むように集まった辺境の民たちの顔には、安堵の光が浮かんでいた。
「ただいまを以て、レイゼル辺境伯の布告により、領内における『治癒優先券』の効力を一切無効とする」
広場に張られた巡回治癒院のテント前で、レイゼル辺境伯の代行として立つカイ様が、凛とした声で宣言した。
「今後、治癒の順番は金貨の多寡ではなく、純粋に患者の容体と緊急度によってのみ決定される。この布告に違反し、金品と引き換えに優先的な治癒を施した者は、教会関係者であっても領の法に基づき厳重に処罰する」
広場を埋め尽くした民衆から、ワァッと歓声が上がった。
つい先ほどまで、多額の金貨を積んで最前列に陣取っていた商人や貴族たちは、無効化された紙切れを手に不満げな顔をしていたが、完全な物証を押さえられ、武装した領兵たちに取り囲まれている現状では、文句を言うこともできなかった。
炎に投げ込まれ、黒い灰となって冬の空へ消えていく紙片。
それら一つ一つが、薬草三十束分であり、本来なら救われるはずだった誰かの命の順番だったのだ。
その悪意の連鎖が、今、確かに断ち切られた。
優先券のシステムを黙認し、私腹を肥やしていたヴィクトル司教は、青ざめた顔のまま王都の中央教会へと召還されていった。
彼はまだ完全に失脚したわけではない。中央の庇護のもとで、いずれ再び何らかの形で私たちの前に立ちはだかるかもしれない。
だが、少なくともこの辺境の地で、これ以上理不尽な命の選別が行われることはなくなったのだ。
私は、炎の向こうで静かに見守るカイ様の横顔を見つめた。
彼が作った『仕組み』が、確かに人々を救っている。その事実に、私の胸の奥に誇らしいような、温かい感情が満ちていくのを感じていた。
その夜、辺境伯家の執務館。
暖炉の火が赤々と燃える静かな執務室で、私はカイ様の机の横に小さな椅子を置かせてもらい、分厚い帳簿と格闘していた。
「……納入された薬草の数が五十束。それに対して、処方された記録が三十束。残りの二十束は、どこへ消えたのでしょう」
私は、数字の羅列がびっしりと書き込まれたページを指でなぞりながら、隣で書類仕事をしているカイ様に尋ねた。
「日付と署名を確認してください」
カイ様は羽ペンを動かしたまま、視線も上げずに答えた。
「納入されたのは今月の五日。署名は、孤児院の横領で処分されたグラン司祭の部下ですね」
「そして、この薬草が極端に不足していると報告が上がったのが、七日です。つまり、わずか二日の間に、二十束もの薬草が『正式な処方以外』の理由で帳簿から消えている」
カイ様は羽ペンをインク壺に置き、私の手元にある帳簿を覗き込んだ。
「あなたが見つけた『祈りの不在』という感覚は、確かに強力な入り口です。しかし、悪意ある者は祈りを偽装することはできても、数字の矛盾までは隠し通せない。日付、署名、そして納入数。この三つを照らし合わせることで、初めて彼らの嘘は『証拠』へと変わるのです」
「日付、署名、納入数……」
私はカイ様の言葉を反芻するように呟き、帳簿の数字をもう一度見つめ直した。
これまで、私にとって帳簿はただの難解な記号の羅列でしかなかった。
けれど、こうして見方を教えてもらうと、まるで数字たちが隠された真実を語りかけてくるように思えてくるのだ。
点と点が繋がり、一つの形を成していくような、初めて知る手応えだった。
「……ですが、やはり私にはまだ難しいです。数字が多すぎて、どこから見ていいのか迷ってしまって」
私がため息をつきながらページをめくろうとした、その時だった。
スッ、と。
私の手元にある帳簿のページに、一枚の細長い革のしおりが差し込まれた。
「え?」
驚いて顔を上げると、カイ様が私のすぐ隣に立ち、少しだけ身を屈めていた。
彼の長く冷たい指先が、しおりの端に触れている。
「すべてを一度に理解しようとするから迷うのです」
カイ様は、まるで子供に教えるような、普段よりもほんの少しだけ低い、穏やかな声で言った。
「ここから見ればいい」
彼はそう言って、しおりを挟んだページをトントンと指で叩いた。
そこには、直近一ヶ月間の『日付』と『納入数』だけが、比較的わかりやすくまとめられた項目があった。
「私が目印をつけておきます。あなたはまず、そこから違和感を探しなさい。無理をして、すぐに監査官になろうとする必要はない」
「カイ様……」
彼が黙って差し込んでくれた革のしおり。
それは、言葉で「頑張れ」と励ますのではなく、私が迷わずに進めるようにと、彼が用意してくれた小さな『道標』だった。
しおりに触れた彼の指先と、私の指先が、ほんの一瞬だけ触れ合った。
ヒヤリとした冷たい感触の奥に、確かな熱を感じて、私は思わず心臓がトクンと大きく跳ねるのを感じた。
甘い言葉など一つもない。ただ事務的に道具を与えられただけなのに、どうしてこんなにも胸が騒ぐのだろう。
「ありがとうございます。……次は、日付から見てみます」
私が照れ隠しにうつむきながら言うと、カイ様は「ええ、そうしてください」と短く返し、再び自分の執務机へと戻っていった。
私たちがこうして、辺境の小さな執務室で次の戦いに向けた準備を進めていた頃。
王都の中央大聖堂は、まるで熱狂のような歓喜の渦に包まれていた。
「皆様! どうかご安心ください。女神の慈悲は、決して絶えることはありません!」
バルコニーから民衆へ向かって微笑みかけるのは、輝くような金髪と、透き通るような青い瞳を持つ美しい少女だった。
彼女の背後には、大司教マティアスが穏やかな笑みを浮かべて控えている。
「これより、新たな次期聖女候補として、セラフィーナ・ローゼを発表いたします」
華やかなファンファーレが鳴り響き、民衆の歓呼の声が王都の空にこだまする。
辺境で起きている不正の事実など、一切なかったかのように。
それは、民に不安を与えず、教会の権威を絶対的なものとして維持するための、美しくも虚飾に満ちた『奇跡』の始まりだった。




