第8話 越権治癒と、前に立つ人
限界を超えて上がり始めた子供の熱は、もはや一刻の猶予も許さなかった。
痙攣する小さな胸から「ひゅっ、ひゅーっ」と空気を求める音が漏れるたび、命の灯火がフッと風に煽られるように消えかかっていくのがわかる。
真っ赤に腫れ上がった頬には脂汗が浮かび、どす黒く紫に変色していく唇は、声にならない悲鳴を上げているようだった。
周囲で順番待ちをしている平民たちも、あまりの容体の悪化に息を呑み、不安げな視線を向けている。
私はもう、誰の許可を待つことも、証拠が揃うのを待つこともしなかった。
治癒院の掟を破ることは、下級聖女としての私の立場をさらに危うくする行為だ。
王都の中央治癒院で、同じように命の危機にある子供を助けようとして「順番が違う」と激しく糾弾され、辺境へ追放されたあの日の冷たい空気が脳裏をよぎる。
それでも、私の足は迷うことなく、冷たい地面に座り込む母親のもとへ駆け寄っていた。
「聖女様……?」
虚ろな瞳でただじっと耐えていた母親が、驚きに目を見開く。
私は無言で彼女の前に膝をつき、高熱で苦しむ子供の小さな身体を、両手でそっと包み込んだ。
「大丈夫です。女神の加護は、ここに」
私は静かに目を閉じ、全身の魔力を練り上げ、極限まで高めていく。
私の治癒魔法は、決して万能ではない。
高位の聖女たちが奇跡のように見せる、失われた体力を完全に元に戻したり、重い病を一瞬で消し去ったりするような派手な光は生み出せない。
私にできるのは、最悪の悪化を食い止め、今にも途切れそうな命を明日へと繋ぎ止めることだけだ。
そして、患者が重症であればあるほど、治癒を施す私自身に跳ね返ってくる代償も大きくなる。
一日に行使できる治癒の回数にも限界があり、無理をすれば深刻な疲労と発熱が容赦なく襲ってくる。
それでも、私は祈るように魔力を注ぎ込み続けた。
ドクン、ドクンと私の心臓が早鐘のように打ち、指先から急速に熱が奪われていく。
逆に、身体の奥底からは不自然な熱が込み上げ、額から冷や汗がポタポタと滴り落ちた。
視界がぐらりと霞み、耳鳴りがキーンと響く。
奥歯を強く噛み締め、自分の生命力を削り取って分け与えるように意識を集中させる。
「ん、あ……っ」
やがて、淡い光が子供の体を包み込み、すうっと吸い込まれるように消えていくと同時だった。
子供の胸が大きく上下し、激しかった痙攣が静かに収まっていった。
苦しげだった呼吸音が穏やかな寝息へと変わり、紫に変色していた唇に、ほんの少しだけ赤みが戻る。
峠は越えた。
あとは暖かくして休ませ、適切な薬草を与えられれば、自らの力で回復できるはずだ。
「ああ……っ! ありがとうございます、聖女様、本当に、本当に……!」
母親は張り詰めていた糸がプツリと切れたように、私の手にすがりつき、大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
私は安堵の息を吐き出したが、急激な魔力消費により、全身の力が一気に抜け落ちていくのを感じていた。
膝から崩れ落ちそうになるのを、冷たい地面に手をついて必死に踏みとどまる。
「いったい何の真似だ、リリアナ・セレスト!!」
空気を震わせるような怒声が、広場の喧騒を鋭く切り裂いた。
びくりと肩を震わせた人々の視線の先から、ヴィクトル司教が怒りで顔を真っ赤にしてこちらへ大股で歩み寄ってくる。
彼の背後には、オロオロとする神官たちと、不愉快そうに顔をしかめる優先券を持った商人たちの姿があった。
「許可なく勝手に患者へ触れるなど、言語道断! しかも、優先券を持つ高貴な方々をお待たせして、そのような平民のガキを優先するとは!」
「この子は……今すぐ、処置が必要でした……」
荒い息を吐きながら答える私の声は、ひどく掠れて震えていた。
指先は氷のように冷え切り、身体の奥底から込み上げてくる発熱と悪寒のせいで、ただ立っていることすら辛い。
視界がチカチカと点滅し、足元がぐらぐらと揺れる。
「黙れ! 王都で越権行為を働き辺境へ追放されたというのに、まったく反省していないようだな! 教会の秩序を乱す無能聖女め!」
彼は憎々しげに私を見下ろし、持っていた重厚な銀の杖を地面に激しく突き立てた。
「この場で明確な処分を下してやろう! お前のような掟破りには、もはや下級聖女の資格すら――」
「処分の話は、監査の後にしていただきます」
その凍てつくような低く静かな声は、ヴィクトル司教の怒声を一瞬にして掻き消した。
ふわりと、古い羊皮紙と乾いたインクの匂いが漂う。
よろめきそうになっていた私の前に、無駄のない黒い執務服の背中がスッと割り込んできた。
カイ様だった。
彼は私を庇うように立ち塞がり、鋭い灰色の瞳でヴィクトル司教を真っ直ぐに見据えている。
その長身の背中は、吹きすさぶ辺境の冷たい風と、司教の浴びせる悪意ある視線を、私から完全に遮ってくれていた。
「なんだ、貴様は! 辺境の役人ごときが、教会の決定に口を出す気か!」
「私はレイゼル辺境伯家筆頭補佐官、カイ・ヴァレンティス。領内の治癒院営業許可を管理する責任者です」
カイ様は、感情を一切交えない、氷のように淡々とした口調で告げた。
「彼女の行動が教会の規則に違反するかどうかは、教会内部の問題でしょう。ですが、現在この巡回治癒院において、不当な『優先券の販売』と『命の順番の操作』が行われているという疑いがあります」
「なっ……、言いがかりだ!」
ヴィクトル司教の顔が、怒りから一転して微かに引きつった。
「言いがかりかどうかは、帳簿と制度が証明します。領の許可なく不正な営業を行っている疑いがある以上、彼女は本件の監査の対象となる重要な参考人です。私の監査が終わる前に、教会の独断で処分を下すことは認められません」
カイ様は、怒り狂う司教に向かって『理屈と法』という絶対の盾を堂々と掲げた。
私を可哀想だと思って、感情的に庇っているわけではない。
あくまで「手続き」と「監査の必要性」という職務上の正当な理由を並べて、ヴィクトル司教の理理不尽な怒りから私を遠ざけてくれているのだ。
でも、その不器用な守り方が、今の私には何よりも心強かった。
彼が発する冷たい言葉と、目の前で私を守るように立ちはだかる頼もしい背中。
出会った日、冷たい言葉とともに私に外套を貸してくれた時のように。
そのギャップに、胸の奥がキュッと締め付けられるような安心感を覚える。
立っているのもやっとの深刻な消耗の中で、彼がそこにいてくれるという事実だけが、倒れそうな私を支えていた。
「……貴様、中央教会に楯突いてただで済むと思っているのか」
ヴィクトル司教はギリッと歯ぎしりをし、憎悪の目を私とカイ様に向けた。
「いいだろう。この越権治癒の件、すぐに王都の中央教会へ報告させてもらう。処分は免れんぞ、覚悟しておくことだな!」
ヴィクトル司教はマントを乱暴に翻し、取り巻きの神官たちを連れてテントの奥へと消えていった。
泣けなかった母親の涙と引き換えに、子供の命は確かに繋がった。
カイ様が前に立ってくれたおかげで、その場での理不尽な追放や監禁は免れた。
しかし、私が犯した越権治癒という掟破りの代償は、決して小さくはなかった。
数日後。
王都の中央教会は、私の行いを重く受け止め、私を正式な“越権治癒”の処分対象にすると通告してきたのだった。




