第7話 痛い順ではなく、金貨の順ですか
裕福な患者たちが当たり前のように握りしめていたあの小さな紙片は、冷たい地面にうずくまる母親のひび割れた手にはなかった。
「お待ちください。この子はもう、何時間も寒空の下で待っています」
たまらず私は声を上げ、また一人、身なりの良い商人をテントへ案内しようとしていた神官の行く手を遮った。
巡回治癒院の白いテントの前。
神官は、邪魔をされたことにあからさまな不快感を浮かべ、私を見下ろした。
「邪魔をしないでいただこう、下級聖女。この方は……」
「さきほどから、後から来た方ばかりが先に案内されています。この子の息はとても浅く、今すぐ処置が必要です」
私は冷たい地面に座り込む母子を振り返りながら訴えた。
母親の腕の中で、小さな男の子は苦しそうに荒い息を吐き続けている。
「だから、順番だと言っているだろう」
神官は忌々しげに吐き捨てた。
「その女は『優先券』を持っていない。この方は、多額の献金と引き換えに優先券をお持ちなのだ」
優先券。
その言葉の響きに、私は背筋に冷たい氷を押し当てられたような錯覚を覚えた。
無料治癒院と銘打ち、女神の慈悲を謳いながら。
実際には、その小さな紙片によって命の順番が売買されているということだ。
「ですが、この子は高熱で苦しんでいます。そちらの商人の方は、ただの軽い咳ではありませんか」
私の言葉に、毛皮のコートを着込んだ商人はいかにも不愉快そうに舌打ちをした。
「ええい、早くしてくれ。私はこの後、大事な商談があるのだ。こんな薄汚れた平民の隣で病気をもらってはたまらん」
神官は商人にペコペコと頭を下げた後、鋭い声で私を威圧した。
「そういう決まりだ。文句があるなら、金貨を積んで優先券を買うことだな」
私は、目の前で繰り広げられるあまりにも堂々とした理不尽に、胸の奥で静かな怒りの芽が膨らんでいくのを感じた。
かつて王都で、私から聖女としての居場所を奪ったあの問いが、再び口をついて出る。
「痛い順ではなく、金貨の順なのですか?」
私の問いかけは、喧騒に包まれた広場の中で、妙に澄んだ音となって人々の耳に響いた。
テントの順番待ちをしていた平民たちが、不安げにこちらへ視線を向ける。
神官が顔を真っ赤にして何かを言い返そうとした、その時だった。
「相変わらず、物事の道理というものがわかっていないようだな、リリアナ」
背後から響いた、威圧的で嫌悪を隠そうともしない声。
振り返ると、豪奢な司教服を身に纏ったヴィクトル司教が、見下すような冷笑を浮かべて立っていた。
王都の治癒院の責任者であり、私を辺境へ追放するよう大司教様に進言した張本人だ。
「ヴィクトル司教様……。なぜ、あなたはここでも痛む者を後回しにするのですか」
私は怯むことなく、彼の目を見据えて尋ねた。
ヴィクトル司教は鼻で笑い、芝居がかった手つきで大げさに肩をすくめた。
「すべては秩序のためだ。我々がこうして辺境まで足を運び、無料で治癒を施せるのはなぜだと思っている? 莫大な費用がかかるのだぞ」
彼は手にした銀の杖で、硬い地面をコツンと叩いた。
「教会を維持し、結果的に多くの者を救うためには、多額の献金をしてくれる者たちを特別に重用せねばならない。彼らが落とす金貨が、治癒院の維持費となり、この巡回治癒団を動かしているのだ」
一見すれば、それは巨大な組織を運営するための、正当で合理的な理屈のように聞こえるかもしれない。
だが、私は彼の言葉を聞きながら、そっと精神を澄ませた。
彼の心根から、患者たちへ向けられた『祈りの残響』が響いてくるかどうかを探るために。
……聞こえない。
熱に浮かされる子供への憐れみも。
病の苦しみを和らげてあげたいという、聖職者としての純粋な願いも。
ヴィクトル司教の奥底から響いてくるのは、『秩序』『献金』『維持費』という、ひどく乾いた冷たい単語の響きだけだった。
痛みに寄り添う患者への祈りは、完全に不在だ。
彼にとって、目の前で失われようとしている命の選別は、ただの会計処理にすぎないのだ。
「さあ、見苦しい真似はやめなさい。そこをどくのだ」
ヴィクトル司教は冷たく言い放ち、冷たい地面に座り込む母親と子供を見下した。
母親は反論することも、涙を流すこともなく、ただ震える子供をきつく抱きしめてうつむいている。
どうして彼女は泣かないのだろう。どうして怒らないのだろう。
その異様な静けさに私が戸惑っていると、母親の腕の中で、子供の身体がビクンと小さく跳ねた。
「ひゅっ……ひゅーっ……」
浅かった呼吸音が、さらに苦しげな、空気を求めて喘ぐような音に変わった。
額に浮かぶ汗は異様なほど冷たく、顔を覆っていた赤みはどす黒い紫へと変色し始めている。
熱が、明らかに先ほどよりも上がっている。
(これ以上は、待てない……!)
このまま順番を待っていれば、間違いなくこの子の命は尽きる。
私が癒しの魔力を練り上げ、教会の掟を破ってでも子供に触れようと一歩前に踏み出しかけた時だった。
背後に、ふわりと冷たい気配が降り立った。
振り返らなくてもわかる。無駄のない黒い執務服に身を包んだ、カイ様だ。
彼は私に声をかけるわけでもなく、私の腕を掴んで物理的に止めるわけでもなかった。
ただ、私が再び無茶な越権行為に及ぼうとしている危うさを察知し、いつでも私を庇い、対処できるように、静かに距離を詰めてきたのだ。
その気配は言葉よりも雄弁に、「独りで無謀な真似はするな」と告げていた。
ほんの少しの安堵感が胸をよぎる。
カイ様の鋭い灰色の瞳は、神官たちが手にするあの『優先券』の紙片へと静かに注がれていた。
数字と制度を重んじる彼が、あの券の存在に気づいたのだ。彼ならば必ず、この理不尽な命の選別を、王国法と帳簿で裁く証拠へと変えてくれるはずだ。
だが、証拠を集めるには時間がかかる。
目の前にいる子供の命は、今この瞬間にも燃え尽きようとしているのだ。
「あ、ああ……」
母親の喉から、声にならない悲鳴のような音が漏れた。
子供の小さな胸が、激しく痙攣を始めたのだ。
もう、誰かの許可を待っている余裕も、証拠が揃うのを待っている時間もなかった。
子供の熱が、限界を超えて上がり始めていた。




