第6話 無料治癒院の、有料の順番
「無料」を謳う巡回治癒院の仮設テント前は、救いを求める人々の熱気で溢れかえっていた。
その喧騒の片隅で、冷たい地面に座り込む一人の母親は、涙一つこぼさずただじっと前を見つめている。
彼女の腕の中で抱かれた子供の胸は、痙攣するように浅い息を繰り返していた。
孤児院の不正が暴かれ、子供たちに温かい毛布が届いてから数日が過ぎた。
雪に閉ざされた辺境の領地に、ほんのわずかな、けれど確かな平穏が訪れていた矢先のことだった。
王都の中央教会から『巡回治癒団』がやって来たのだ。
彼らは広場にいくつもの大きな白いテントを張り、高位の神官たちによる無料の治癒を行うと宣言した。
過酷な冬の寒さに耐え、医者にかかる金もない辺境の民にとって、それはまさに女神の慈悲そのものだった。
夜明け前から広場には長蛇の列ができ、焚き込められた甘い香炉の匂いと、人々の期待に満ちた人いきれが、冷たい空気をむわっと暖めていた。
私も下級聖女として、列の整理や怪我人の介抱を手伝うために広場へ出ていた。
しかし、人々の間を縫って歩くうちに、私の胸の奥で小さな違和感が膨らみ始めていた。
列の進み方が、どうにもおかしいのだ。
何時間も寒空の下で待っている重症の老人が一向に案内されない一方で、毛皮のコートを着込んだような身なりの良い商人たちが、後からやって来ては別の短い列に並び、次々とテントの奥へ通されていく。
治癒は万能ではない。重症者を治療すれば神官の魔力も大きく消費されるため、効率を考えて軽症者を先に回しているのだろうか。
だとしても、あまりにも極端な偏りだった。
そんな違和感を抱えながら広場の隅を見回した時、私は、あの母親を見つけた。
粗末な薄い布を羽織り、冷たい地面に膝を抱えて座り込んでいる小柄な女性だった。
彼女の腕の中には、三歳くらいの小さな男の子が抱かれている。
私は駆け寄り、そっと膝をついた。
子供の顔は異常なほど赤く腫れ上がり、苦しげな呼吸音がひゅーひゅーと漏れている。
「ひどい熱……」
私が子供の額に手を触れると、火のように熱かった。
乾ききった唇は紫色に変色し、小さな手はギュッと硬く握りしめられている。
一刻も早く熱を下げ、命を繋ぐための処置をしなければならない状態だ。
なのに、母親は不思議なほど静かだった。
普通なら、泣き叫んで神官に助けを求めたり、取り乱して誰かにすがりついたりしてもおかしくない状況だ。
王都の治癒院で私が出会った母親も、大粒の涙を流して必死に子供を抱きしめていた。
しかし、目の前の女性の瞳は酷く乾いており、表情は張り詰めた糸のように強張っている。
彼女は泣くことすら放棄したように、ただじっと、テントの入り口を見つめ続けていた。
「どうして……ずっとここで待っているのですか? この子には、早く治癒の光を当ててあげないと」
私の問いかけに、母親は緩慢な動作で首を横に振った。
「だめ、なんです。私たちは、列の後ろに並び直すように言われましたから……」
掠れた声には、深い諦めが滲んでいた。
痛い順ではない。重症な順でもない。
何かがおかしい。
私は立ち上がり、テントの入り口で患者を案内している神官たちの方を真っ直ぐに見据えた。
そこで、信じられない人物の姿を目にした。
豪奢な司教服に身を包み、腕を後ろに組んでふんぞり返っている恰幅の良い男。
王都の中央治癒院で、私を「越権行為だ」と怒鳴りつけ、追放のきっかけを作ったヴィクトル司教だった。
(どうして、ヴィクトル司教様がここに……?)
彼が巡回治癒団の責任者としてこの辺境に来ている。
その事実だけで、私の背筋に冷たいものが走った。
私は、彼の姿を見つめながら、そっと精神を集中させた。
治癒院の責任者である彼から、患者たちへ向けられた『祈りの残響』が聞こえるかどうかを確かめるために。
だが、何も聞こえない。
患者を案じる温かな祈りも、病魔を退けようとする願いも、一欠片も感じられない。
聞こえてくるのは、ただ冷たく乾いた言葉の羅列だけだった。
『教会の維持費』
『秩序ある献金』
『王都への手土産』
彼にとって、目の前で苦しんでいる民は救うべき命ではなく、教会の権威と利益を回すための歯車でしかないのだ。
グラン司祭の時と同じ、完全な『祈りの不在』がそこにあった。
「……あ」
私はハッとして、テントの入り口を凝視した。
後からやって来て、短い列に並んだ裕福そうな男が、入り口の神官に『何か』をこっそりと手渡したのだ。
それは、小さな硬い紙片のように見えた。
それを受け取った神官は、深く頭を下げ、重症者たちを差し置いてその男を最優先でテントの奥へと案内した。
広場の端へ視線を向けると、冷たい風が吹き抜ける中、黒い執務服に身を包んだカイ様が腕を組んで立っていた。
領内の治癒院の営業許可を管理する立場にある彼は、無闇に口を出すことはせず、ただ鋭い灰色の瞳でこの異様な光景を静かに監視している。
遠くからでも、彼がすでに私と同じ違和感……いや、明確な『不正の気配』を察知していることが伝わってきた。
私は再び、足元の母親へと視線を落とした。
高熱で苦しむ子供を抱き、泣くことすらできない彼女のひび割れた手。
その手の中には、他の裕福な患者たちが神官に見せていた、あの『小さな紙片』が握られていなかった。




