第4話 毛布三十二枚分の罪
「追放された無能聖女が、まさか帳簿の数字に口を出すとはね。現場の管理不備を中央のせいにされては困りますな」
最高級の獣毛で仕立てられた分厚い外套を着込んだ男が、冷笑を浮かべて軽い言い逃れを口にした。
その隣で、無駄のない冷たい指が、静かに革張りの台帳のページを繰っていた。
孤児院の小さな応接室には、凍りつくような冷気と、重苦しい空気が立ち込めていた。
窓枠の隙間からはヒューヒューと身を切るような風が吹き込んでいる。
暖炉には、子供たちが裏の森で拾い集めてきた僅かな枯れ枝が燻っているだけで、部屋の中だというのに吐く息は真っ白に染まった。
中央教会・会計局責任者であるグラン司祭は、この貧しい孤児院には不釣り合いな豪奢な椅子にふんぞり返っていた。
彼の丸々と太った指にはいくつもの宝石が輝き、出された薄いハーブティーには口をつけようともしない。
彼の分厚い脂肪と上質な毛皮の外套は、辺境の寒さを完全に遮断しているようだった。
「だいたい、こんな辺境の薄汚れた孤児院に、わざわざ私が出向いてやったというのに。歓迎の宴の一つもないとは、どういう教育をしているのですか」
グラン司祭は苛立たしげに鼻を鳴らすと、部屋の隅で小さくなっているノーマ修道女をねめつけた。
「申し訳、ございません……」
ノーマ修道女はびくりと肩を震わせ、ひび割れ、赤くあかぎれだらけの自分の手をぎゅっと握りしめている。
彼女は自分の食事すら削って子供たちに分け与えているのだ。歓迎の宴を開くような資金も食材も、あるはずがない。
「グラン司祭様」
私は、怯えるノーマ修道女を庇うように一歩前に出た。
私の手には、彼が記した報告書の写しが握られている。
「歓迎の宴を開く余裕など、今のこの孤児院にはありません。それよりも、確認させていただきたいのです。あなたが署名した『冬季備品支給完了報告書』には、確かな納入数が記載されていました。しかし、実際の在庫には毛布がただの一枚もありません」
帳簿の読み方など、つい先日までまったく知らなかった私だ。
それでも、納入数と実際の在庫が違うという『数字の矛盾』だけは、はっきりと理解できた。
けれど、グラン司祭は痛いところを突かれたというような顔はしなかった。
むしろ、馬鹿をあやすような、あからさまに小馬鹿にした笑みを浮かべた。
「聖女殿。あなたは祈るのがお仕事でしょう? 難しい数字のことは、専門家に任せておきなさい。書類上は確かに支給されている。つまり、物が無いとすれば、それは現場の責任だ」
彼は太い指で、ノーマ修道女を指差した。
「そこの修道女が、ずさんな管理をしてどこかへ失くしたか。あるいは、近隣の村に横流しでもして、小銭を稼いだんじゃないですか?」
「そ、そんなこと……! 私は絶対に、子供たちの物を奪ったりなど……!」
ノーマ修道女が涙ながらに首を横に振る。
私も、あまりの言い草に胸の奥が熱くなった。
「ノーマ様は、子供たちのためにご自身の命を削って働いておられます! 子供たちの毛布を横流しするなど、絶対にあり得ません!」
「なら、山賊にでも奪われたんでしょう。いずれにせよ、教会の金は教会のものだ。部外者や、辺境に追放された無能聖女が、偉そうに口を出すことではない」
グラン司祭は面倒くさそうに立ち上がった。
彼にとって、この辺境の孤児院で子供たちが凍えていようが、修道女が涙を流そうが、まったく関心のないことなのだ。
「帰りましょう。まったくの無駄足でした。辺境伯には、修道院の管理不備として厳重に抗議を入れておきましょう」
「お座りください、司祭殿」
凍てつくような低く冷たい声が、応接室に響き渡った。
今まで部屋の隅で壁に寄りかかり、沈黙を保っていたカイ様が、ゆっくりと歩み出てきた。
その灰色の瞳には、一切の感情が宿っていない。
ただ、不正を決して見逃さない極寒の理性がそこにあった。
「なんだ、君は。辺境伯の使い走りか?」
グラン司祭が不快げに眉をひそめる。
カイ様はそれに答えることなく、片手に持っていた分厚い革張りの台帳を、テーブルの上にドサリと重い音を立てて置いた。
そして、無駄のない洗練された所作でページを開く。
「確かに、教会の金だけならば、私に監査権はありません」
カイ様の言葉に、グラン司祭は「当然だ」とばかりに鼻で笑った。
中央教会は王国から免税特権を与えられており、内部の資金繰りについては治外法権に近い力を持っている。
「ですが」
カイ様の冷たい指先が、台帳の支出項目のひとつをトントンと叩いた。
「この孤児院の備品支出には、王国救恤金が混ざっています」
「なっ……」
グラン司祭の顔から、サッと血の気が引いた。
「免税特権の代償として、救貧事業には王国監査院の監査が入る。ここからは祈りではなく、王国法の話です」
カイ様の宣告は、簡潔にして絶対だった。
複雑な法律の解説はしない。ただ、王国が教会を裁けるという逃れようのない事実だけを、鋭い刃のように突きつけたのだ。
余裕に満ちていたグラン司祭の顔つきが強張り、こめかみに脂汗が滲み出し始める。
「な、辺境の補佐官ごときが、王国監査院の真似事をする気か……!」
「真似事ではありません。実務です」
カイ様は淡々とした声で、帳簿の数字を読み上げ始めた。
「冬季備品支給報告書。あなたが署名した不正な引き出し額は、金貨八十枚」
「……っ」
「金貨八十枚。毛布なら、三十二枚分です」
その言葉に、私はハッとしてカイ様の横顔を見つめた。
金貨八十枚と言われても、私にはそれがどれほどの価値なのかピンとこなかった。
けれど、毛布三十二枚と言われれば、はっきりと想像できる。
カイ様の声は、決して熱を帯びてはいなかった。
けれど、その言葉の裏には、薄い壁の向こうで震えている子供たちの痛みが、確かに乗せられていた。
無機質な数字を、彼はいとも簡単に『人間の痛み』へと変換してみせたのだ。
「今夜、この孤児院で眠る子供たちは、三十一人います」
カイ様は、灰色の瞳でグラン司祭を真っ直ぐに射抜いた。
「司祭殿。あなたは、子供たち全員から一枚ずつ毛布を剥ぎ取ったことになります」
グラン司祭は言葉を失い、あぐらをかいていた余裕は完全に崩れ去っていた。
目を見開き、口をパクパクとさせている。
それでも、彼は必死に逃げ道を探そうとした。
「し、証拠があるのか! どこかに消えただけだ、私が横領したなどという証拠は……!」
見苦しい言い逃れを続ける彼を見て、私はどうしても聞かずにはいられなかった。
怒りではなく、ただ純粋な疑問として。
「グラン司祭様」
私の静かな声に、グラン司祭がビクッと肩を揺らす。
「どうして、凍える子供たちから毛布を奪ってまで、金貨が必要なのですか?」
「な……」
「その金貨は、寒さの中で亡くなったルカの命よりも、重くて大切なものだったのですか?」
その瞬間。
グラン司祭の顔から、完全に笑みが消え失せた。
彼は恐怖とも怒りともつかない表情で私を睨みつけたが、気の利いた反論の言葉は一つも出てこなかった。
(すごい……)
私は、隣に立つカイ様をそっと見上げた。
私が拾い集めた『祈りの不在』という曖昧な入り口。
それを、彼は『数字と法』という絶対的な出口へと、いとも簡単に繋いでみせたのだ。
冷たい言葉の下にある、弱者を守るための確かな有能さに、私は胸の奥が微かに温かくなるのを感じていた。
だが、グラン司祭はまだ完全には落ちていなかった。
「ふ、ふざけるな……! 私を誰だと思っている! こんな辺境の言いがかりなど、中央が認めるはずがないぞ!」
彼は顔を真っ赤にして喚き散らし、応接室の扉へ向かって後ずさる。
まだ、彼は自分が逃げ切れると思っている。
自分の罪が、どれほど重いものか理解していない。
ならば、彼が完全に崩れ落ちるまで、この数字の追及が終わることはないだろう。




