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第3話 届いたはずの毛布と、祈らない司祭

帳簿の記録によれば、この部屋には真新しい毛布と、ひと冬を越すための薪がたっぷりと積まれているはずだった。

なのに目の前では、薄い布切れにくるまった子供たちが、身を寄せ合ってガタガタと震えている。

記録と現実の残酷な矛盾を前に、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。




「聖女様……。こんなむさ苦しいところへ、ようこそおいでくださいました」


背後から声をかけられ、私はハッと我に返った。

振り返ると、色あせてすり切れた修道服に身を包んだ女性が立っていた。

辺境礼拝堂に併設された孤児院を一人で切り盛りしている、ノーマ修道女だ。


彼女の年齢は四十ほどだと聞いているが、深く刻まれた疲労の皺と、ひどく荒れてひび割れた手のせいで、もっと年上にすら見えた。


「ノーマ様。この寒さは、あまりにも……」


私は言葉を詰まらせた。

部屋の中だというのに、吐く息は真っ白に染まる。

窓の隙間からは容赦なく雪交じりの風が吹き込み、暖炉には火の気すらない。

部屋の隅に置かれた大きな鍋からは、薄い塩ゆでの野菜スープの匂いがかすかに漂ってくるだけだ。


「お恥ずかしい限りです。薪はとっくに尽きてしまい、今は裏の森で拾い集めた枯れ枝で、なんとかスープを温めている有様でして……」


ノーマ修道女は、申し訳なさそうに身を縮めた。


「中央教会からの冬の支援物資は、届いていないのですか? 礼拝堂の帳簿には、すでに支給されたと記載があったのですが」


私の問いに、彼女は悲しげに首を横に振った。


「秋の終わりに、一度だけ中央の会計局から視察の方がいらっしゃいました。その際、書類にサインはさせられましたが……荷馬車は一台も来ておりません。毛布も、薪も」


「そんな……。では、子供たちはこの薄い毛布一枚で、ずっとこの寒さを?」


ノーマ修道女は、震える子供たちへと痛ましげな視線を向けた。

そして、祈るように両手を組み合わせ、ひどく掠れた声でぽつりと言った。


「……去年の冬、ルカという子を亡くしました」


その言葉に、私の心臓が冷たく跳ねた。


「風邪をこじらせてしまったのです。私たちが、もっと彼を温めてあげられていれば。けれど、毛布が足りなかったのです。あの子は最後まで、寒さに震えながら……」


ノーマ修道女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

彼女はそれ以上言葉を続けることができず、ただ口元を押さえて嗚咽を漏らした。


ルカ。

私は、その短い名前を心の奥底に深く刻み込んだ。

顔も知らない、もう祈ることもできない子供の名前。

絶対に忘れてはいけない痛みの記憶として。


その時、私の修道服の裾が、ちょいちょいと弱々しく引っ張られた。

見下ろすと、五歳くらいの小さな女の子が、大きな瞳に涙を溜めて私を見上げていた。


「せいじょさま……。ルカみたいに、おほしさまになっちゃうの?」


不安でいっぱいのその声に、私は胸が張り裂けそうになった。

私は冷たい石の床に膝をつき、女の子のひどく冷え切った小さな手を両手で包み込んだ。


「大丈夫。絶対に、そんなことはさせません」


掌から、ほんの少しだけ魔力を流し込む。

冷え切った彼女の指先に、ささやかな温もりが宿る。

女の子はほっとしたように息を吐き、私の手にすり寄ってきた。


けれど、私の微力な治癒魔法で温められるのは、一人か二人が限界だ。

この孤児院にいる三十人以上の子供たち全員を、魔法だけで冬の寒さから守り切ることなど到底できない。


彼らを救うには、魔法ではなく、本物の毛布と薪が必要だった。




私は孤児院を後にすると、足早に礼拝堂の事務室へと向かった。


冷え切った部屋の机の上には、先ほど目を通したばかりの帳簿が置かれている。

私はその隣に保管されていた、王都の中央教会から送られてきた公式な報告書の束を引っ張り出した。


『辺境孤児院 冬季備品支給完了報告書』

そこには、真新しいインクでそう記され、末尾には立派な署名が添えられていた。

会計局責任者、グラン司祭。

ノーマ修道女にサインだけを書かせ、物資を届けなかった張本人だ。


私は、グラン司祭の署名の上に、そっと自分の掌を重ねた。


通常、聖職者が直筆でサインをした書類には、わずかながら『祈りの残響』が残る。

担当する地域の人々の平穏や、子供たちの健やかな成長を願う、温かく清らかな念。

それは微弱なものだが、私にははっきりと感触として伝わってくるはずのものだ。


しかし。

グラン司祭の署名からは、何も聞こえなかった。

ただの一欠片も、祈りが響いてこないのだ。


「……冷たい」


私は思わず呟いた。

まるで氷の塊に触れているような、完全な無。

そこにあるのは、インクの匂いと、事務的な虚無感だけだった。


子供たちの「寒い」「助けて」という悲鳴のような祈りは、あんなにもはっきりと、痛いほどに聞こえてきたのに。

彼らを保護し、見守るべき立場にある責任者の文字からは、子供たちへの祈りがまったく感じられない。


この人は、孤児のために祈っていない。

彼にとって、辺境の子供たちは救うべき命ではなく、帳簿の上で処理されるただの数字でしかないのだ。


私は、書類を掴む手にぎゅっと力を込めた。

これは、ただの事務的な遅れでも、手違いでもない。

明確な悪意だ。

私はその書類を抱え、足早に礼拝堂を飛び出した。




向かった先は、辺境伯家の執務館。

冷徹な監査官、カイ・ヴァレンティス様が執務をとる場所だ。


厚い木の扉をノックして部屋に入ると、彼は山積みにされた書類の束の向こうで、眉間に皺を寄せながら羽ペンを走らせていた。


「何の用ですか。私は今、来春の備蓄計画の策定で忙しい」


カイ様は顔を上げることもなく、氷のように冷たい声で言った。

私はひるむことなく、彼の大きな執務机の前に進み出た。


「カイ様。中央教会のグラン司祭という方について、調べていただきたいのです」


「……中央の人間を? 理由を聞きましょう」


ようやく羽ペンを止めたカイ様が、鋭い灰色の瞳で私を射抜いた。


「孤児院の子供たちが、凍えています。でも、彼の書いた報告書からは、子供たちへの祈りがまったく聞こえないのです。彼は、子供たちを救う気などありません」


「祈りが聞こえない、ですか」


カイ様は深くため息をつき、羽ペンをインク壺に戻した。


「何度でも言いましょう、聖女殿。祈りの有無は、何の証拠にもなりません。そんな曖昧な個人の感覚を根拠に、王国が中央教会の人間を調査することなど不可能です」


予想通りの冷酷な拒絶だった。

けれど、今の私は「祈るだけの無能」として追放された昨日までの私ではない。


「はい。ですから、数字を見てきました」


私は、小脇に抱えていた礼拝堂の帳簿の写しと、グラン司祭の報告書を、カイ様の机の上に広げた。


「祈りは証拠になりません。ですが、この報告書には『毛布が支給された』と記載されています。しかし、実際の孤児院には、ただの一枚も新しい毛布がありませんでした。納入数と、実際の在庫が、まったく一致していないのです」


カイ様の灰色の瞳が、微かに見開かれた。

彼はゆっくりと机の上の書類に視線を落とし、二つの数字を見比べた。


帳簿の記録と、現場の不在。

それは、魔法でも感情でもない、彼が最も重んじる『正確な数字の矛盾』だった。


しばらくの沈黙の後。

カイ様は、まるで価値のある鉱石を見つけた鑑定士のような、鋭くも静かな瞳で私を見上げた。


「……あなたの目は、ただ涙を流すためだけについているわけではないようですね」


その言葉には、初対面の時のようなどこか見下すような響きは消えていた。

彼はスッと立ち上がり、私の広げた書類を自分の手元へと引き寄せる。


「いいでしょう。数字の不一致であれば、監査の余地がある。あなたが祈りの不在で見つけた入り口を、私が帳簿の矛盾という出口に繋いでみせましょう」


初めて、彼が私の言葉を『仕事』として受け取ってくれた瞬間だった。

冷たい灰色の瞳の奥に、理知的な炎が静かに灯るのを感じた。


「お見事な着眼点ですが……少々、急ぐ必要がありそうですね」


カイ様は、執務机の隅にあった一通の封書を指差した。


「先ほど、中央教会から伝令がありました。近日中に、会計局の人間がこの辺境領の視察に訪れるそうです」


「視察……。まさか」


「ええ」


カイ様は、冷ややかに唇の端を釣り上げた。


「グラン司祭本人が、ここへやって来ます」

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