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第2話 冷徹監査官様は、外套だけは貸してくれる

「祈りは、何の証拠にもなりません」


灰色の瞳を持つその男は、一切の感情を交えずにそう言い放った。

まるで書類の不備を淡々と指摘するような冷たい響きに、私は思わず息を呑み、痛いところを突かれたように口を閉ざした。




王都を追放され、凍てつくような隙間風に何日も揺られ続けた馬車が、ようやく辿り着いた場所。

そこは、雪に閉ざされた北の果て、レイゼル辺境伯領だった。


馬車から降り立った私を待っていたのは、肌を刺すような冷たい空気と、一面を覆う厚い雪雲、そして一人の男だった。


漆黒の髪に、氷のように冷ややかな灰色の瞳。

長身を包むのは、装飾を削ぎ落とした無駄のない黒の執務服。

整った顔立ちには一切の表情が浮かんでおらず、ただ静かな理性がそこにあるだけだった。


彼の名は、カイ・ヴァレンティス。

レイゼル辺境伯家の筆頭補佐官であり、元王国監査官だという。


「レイゼル辺境伯領へようこそ、聖女殿。とはいえ、歓迎の宴を用意している余裕は、我が領にはありませんが」


挨拶代わりに向けられたのは、事務的で素っ気ない言葉だった。

彼の視線は、私を『人』として見ているというよりは、中央から送り付けられた『厄介ごとの包み紙』を品定めしているかのようだった。


「中央の治癒院でどのような問題を起こしたのか、詳細な報告書は届いています」


「それは……」


「言い訳は不要です」


彼は私の言葉を遮り、手元の羊皮紙から目を離さずに言った。


「中央教会があなたをどう評価しようと、私には関係のないこと。ですが、一つだけ忠告しておきます」


そこで初めて、彼は灰色の瞳をまっすぐに私へと向けた。

見透かされるような視線に、私は思わず肩をすくめる。


「ここは、冬の寒さが命を奪う辺境です。神の奇跡も、曖昧な善意も、ここでは誰も救いません。私が必要とするのは、正確な数字と、備蓄の実態、そして法に基づく制度だけだ」


彼からすれば、私は『祈るだけの無能』の烙印を押されて流刑にされた娘にすぎないのだろう。


「祈りは、何の証拠にもなりません」


その断絶の言葉は、私の胸の奥を冷たく抉った。


私は何も言い返せなかった。

彼の態度は冷酷だったが、不思議と憎しみや悪意は感じなかったからだ。


むしろ、その声には、厳しい現実を直視し続けてきた者だけが持つ、重い説得力があった。

彼の言葉は、決して私を痛めつけるための嘘ではない。

それを肌で感じ取ってしまったからこそ、私は俯くことしかできなかった。




「案内は後続の者にさせます。私はこれで」


カイ様は踵を返し、雪の積もる道を立ち去ろうとした。


その時、身を切るような冷たい突風が吹き抜けた。

薄い聖女服しか着ていない私は、たまらず身をすくませ、自分の肩を抱いてガタガタと震えてしまった。

王都の冬とは比べ物にならない、暴力的なまでの寒さだった。


雪を踏む足音が、ぴたりと止まった。


振り返った彼が、わずかに眉間に皺を寄せる。

そして、無言のまま大股で私のもとへ戻ってくると、自身の肩に羽織っていた厚手の外套を脱ぎ、私の肩にバサリと乱暴に掛けた。


「え……」


突然のことに驚いて見上げると、彼はすでに視線を逸らしていた。


「領内で行き倒れられては、王国に死亡報告書を提出する事務手続きが増えます。防寒具の支給が済むまでは、それを羽織っておきなさい」


「ですが、カイ様が……」


「私は馬に乗る。問題ありません」


それだけを言い残し、彼は今度こそ足早に立ち去っていった。


肩に乗せられた真っ黒な外套は、私には少し大きすぎて、ずっしりとした重みがあった。

けれど、その重みの下には、彼のかすかな体温が残っている。


微かに漂ってきたのは、古い羊皮紙と、乾いたインクの匂い。


言葉はあんなにも冷たかったのに。

私が凍死すれば手間が増えるからだと言ったけれど、彼が私を凍える風から守ってくれたのは事実だ。


私は外套の襟元を両手でぎゅっと握りしめ、インクの匂いごと、その不器用な温かさに包まれていた。




案内されたのは、古びた辺境礼拝堂だった。

隣には小さな孤児院が併設されている。


夜になると、寒さはさらに厳しさを増した。

礼拝堂の執務室で荷解きを終えた私は、孤児院の寝室の様子を見に足を運んだ。


部屋の空気は凍りつくように冷たい。

壁の隙間からはヒューヒューと冷たい風が吹き込み、燭台の炎が弱々しく揺れている。


部屋の隅にある粗末なベッドでは、小さな子供たちが身を寄せ合うようにして眠っていた。


「風邪を引いてしまうわ……」


私は急いで近づき、はみ出していた子供の肩に、そっと毛布を掛け直そうとした。

その時、私の掌が子供の冷たい頬に触れた。


――その瞬間。


耳からではなく、触れ合わせた掌の奥深くに、直接『声』が響いた。



さむい。


もうふは、まだ?


めがさめたら、こごえてしまう。



音の形を持たない、むき出しの痛みの感触。

子供たちの悲鳴のような祈りの残響が、私の指先から心臓へと流れ込んでくる。


(こんなに薄い毛布一枚で、この寒さを耐えているの?)


私は周囲を見渡した。

どのベッドの毛布も、向こうが透けて見えそうなほどすり減り、薄っぺらいものばかりだ。

暖炉には火の気もなく、薪のストックすら見当たらない。


子供たちの祈りは、空腹よりも寒さへの恐怖で満ちていた。

王都から支援の物資は届いていないのだろうか。

これでは、冬を越す前に命を落とす子供が出てもおかしくない。


胸の奥がざわざわと波打つ。

私は子供たちに自分の魔力を少しだけ分け与え、体温を保つ応急処置を施してから、足早に執務室へと戻った。


机の上に置かれていたのは、この礼拝堂と孤児院の管理を記した帳簿だった。

私は震える手でページをめくり、冬の備品台帳の項目に目を走らせた。


そこには、信じられない言葉が記されていた。


子供たちが寒さに震え、命の危機にさらされているというのに。

帳簿には、十分な数の真新しい毛布も、ひと冬を越すための薪も、すべて『支給済み』と記されていたのだ。

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