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第1話 金貨を積んだ方から、女神様の順番が早くなるのですか?

「リリアナ・セレスト。あなたを辺境礼拝堂へ移します」


大司教様の声は、治癒院の冷たい床で泣いていた母親の声よりも、ずっと穏やかだった。


私がしたことは、ただ一つだけ。

金貨を積んだ侯爵夫人より先に、息の浅い子供へ手を伸ばしたことだ。




その日の王都中央治癒院は、ひどく混み合っていた。


天井の高い石造りの広間には、甘く重い香が焚き込められている。

だが、その豪奢な香りを以てしても、大勢の人々が発する不安の熱気と、病の匂いを誤魔化すことはできていなかった。


私、リリアナ・セレストは、壁際に立ち、ただ静かに祈りを捧げていた。

下級聖女である私に許されているのは、高位の神官たちが治癒を行うための場を清めることくらいだ。


「こちらへどうぞ、夫人」


ふくよかな侯爵夫人が、たっぷりと金貨の詰まった豪奢な袋を従者に持たせ、司教に案内されて最前列へと進み出る。

彼女の指先には大粒の宝石が輝き、顔色はすこぶる良い。

本日の悩みは、長引く肩の凝りと寝付きの悪さだという。


一方で、列のずっと後ろ。

冷たい石の床に膝をつき、必死に子供を抱きしめている母親がいた。


母親の着ている麻の服はすり切れ、その手はひび割れている。

そして腕の中にいる子供の息は、恐ろしいほどに浅かった。


小さな胸が、不規則に、痙攣するように上下している。

高熱に浮かされた唇は紫に変色し、目は虚ろだ。


今すぐ誰かが手を差し伸べなければ、あの子の命の灯火は、次の鐘が鳴る前に確実に消えてしまう。


けれど、彼らは平民だった。

彼らが握りしめているのは、銅貨が数枚入った粗末な袋だけ。


だから、順番は回ってこない。

教会の決まりでは、献金の多い者が優先されるからだ。

侯爵夫人の肩の痛みが癒され、その次に並ぶ裕福な商人の胃痛が癒されるまで、あの小さな命は待たなければならない。


私は、たまらず列を外れた。

無意識に足が動き、冷たい床に這いつくばる母親のもとへ駆け寄っていた。


「聖女様……?」


驚きとすがりつくような思いが混じった目で私を見上げる母親。

その目の前で、私は冷え切った子供の小さな手を、両手でそっと包み込んだ。


その瞬間だった。


耳からではなく、触れ合わせた掌の奥深くに、直接『声』が響いた。



たすけて。


いたい。


おかあさんを、ひとりにしないで。



それは、音の形を持たない、むき出しの痛みの感触だった。

祈りの残響。

私にだけ伝わる、切実な痛みの震え。


その悲鳴のような祈りが、指先から心臓へと直接流れ込んでくると、私はもう、順番など待つことはできなかった。


「大丈夫です。女神の加護は、ここに」


私は静かに目を閉じ、体内の魔力を紡ぐ。


私の治癒能力は、けっして高くはない。

高位の聖女のように、派手で光り輝く奇跡は起こせない。

一日に使える力にも限界があり、重い病を一瞬で完治させることなど到底できない。


ただ、悪化を止め、途切れそうな命を繋ぐだけだ。

それでも、今この瞬間に必要なのは、その「命を繋ぐ力」だった。


ふわりと、淡い光が子供の体を包み込む。


「ん、あ……」


子供の胸が、一度大きく上下した。

浅かった呼吸が深くなり、痙攣が静かに収まっていく。

紫がかっていた唇に、ほんの少しだけ赤みが戻った。

峠は越えた。あとは医師に診せ、温かくして休ませれば、命は繋がるはずだ。


「ああ、女神様……! 聖女様、ありがとうございます、本当に、ありがとうございます……!」


母親は私の手にすがりつき、大粒の涙を床にこぼした。


私自身は、重症の子供へ急激に魔力を注いだことで、指先がひどく冷たくなっていた。

立っているのも少し辛いほどの脱力感が全身を襲う。

それでも、子供の命が繋がったという安堵感が、その疲労を心地よいものに変えてくれた。



「いったい何をしているのだ、リリアナ!」



空気を切り裂くような怒声が、治癒院に響き渡った。


振り返ると、治癒院の責任者であるヴィクトル司教が、顔を真っ赤にして立っていた。


「順番が違うだろう! あちらには、多大な献金をいただいた侯爵夫人をお待たせしているのだぞ! ただでさえ魔力の低いお前が無駄な真似を……!」


「申し訳ありません」


私は恐縮して頭を下げた。

確かに、教会の決まりを破ってしまったのは私だ。

越権行為であることは間違いない。


けれど、私はどうしても腑に落ちなかった。

命の危機にある子供が目の前にいて、肩が凝っている夫人がいる。

どう考えても、子供の方が急を要しているはずだ。


だから私は、本当に純粋な疑問として、尋ねてしまった。


「司教様。どうして金貨を多く積んだ方から、女神様の順番が早くなるのですか?」


その瞬間。

熱気に満ちていた治癒院の空気が、嘘のように凍りついた。


ヴィクトル司教は絶句し、口をぱくぱくとさせている。

侯爵夫人は扇子で口元を隠して目を丸くし、他の神官たちも、まるで信じられないものを見るような目で私を見ていた。


なぜ皆がそんなに驚いているのか、私にはわからなかった。


女神様は、金貨の重さで命の価値を決めるのだろうか。

教典には、女神の慈悲は等しく万民に降り注ぐと書かれている。

私は、決して司教様を非難したかったわけではない。ただ、その矛盾の真実を知りたかっただけなのだ。



「……騒々しいですね」



凍りついた静寂を破ったのは、低く穏やかな声だった。

人々がさっと道を空け、深く頭を垂れる。


現れたのは、中央教会の頂点に立つ、マティアス大司教様だった。


彼は怒鳴らなかった。

威圧することもなく、常に慈悲深い微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと私の前まで歩み寄る。


「大司教様、申し訳ありません! この下級聖女が越権行為を働き、あろうことか不敬な口を……!」


ヴィクトル司教の慌てふためく声を、大司教様は軽く手で制した。


「リリアナ・セレスト」


大司教様の声は、治癒院で泣いていた母親の声よりも、ずっと穏やかだった。

だからこそ、ひどく恐ろしかった。

深淵を覗き込むような、底知れぬ冷たさがその微笑みの奥にあった。


「では、辺境で祈っていなさい」


彼は、微笑んだままあっさりと告げた。


「あなたの祈りが、誰にも届かない場所で」


私は反論しなかった。

反論の仕方がわからなかったし、権力争いや帳簿のこと、悪意の損得といったものは、私には難しすぎた。


追放は、確定した。

身一つで北の果てへ送られる。それは事実上の死の宣告に近い理不尽だ。


(でも、あの子は助かった)


掌には、まだあの温もりが残っている。

あの子供の命が明日へ繋がったという事実だけは、大司教様でも奪うことはできない。

私の中に残るただ一つの芯が、私を立たせていた。


けれど、教会の決定は絶対だ。

その日から、私は聖女として扱われなくなった。


教会を傷つける、祈るだけの無能。

そう呼ばれることになった。




数日後。

私は、雪深い北の果て、レイゼル辺境伯領へと向かう馬車の中にいた。


車輪が凍てついた轍を踏み越えるたび、粗末な馬車が激しく軋む。

窓の隙間から吹き込む風は、刃のように冷たく私の頬を撫でた。


渡されたのは、薄い外套が一枚きり。

指先は凍え、吐く息は白い。


それでも私は、ひどく揺れる馬車の中で静かに手を組み、目を閉じていた。


王都に残してきた、顔も知らない誰かのために。

今日どこかで、寒さに震えている誰かのために。


祈りは空へ消えない。

届かなくても、私は祈り続ける。


けれど私は、まだ知らなかった。

これから向かう底冷えの辺境には、祈りも善意も決して信じない男が、私を待っているということを。

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