第37話 祈りが届く場所
王都での激動のすべてを終わらせ、私たちが帰ってきたのは、やはりこの場所だった。
冷たい風を遮る分厚い石壁と、暖炉の火が赤々と燃える、レイゼル辺境伯領の小さな礼拝堂。
ここには、大聖堂のような見上げるほどのステンドグラスも、金糸で彩られた玉座もない。
けれど、ここには何よりも確かな、血の通った温もりがあった。
礼拝堂の奥、急ごしらえの仮眠所では、王都から届いたばかりの真っ白で分厚い毛布にくるまり、孤児院の子供たちが穏やかな寝息を立てている。
その寝顔を愛おしそうに見つめながら、ノーマ修道女が優しく彼らの頭を撫でていた。
「ノーマ修道女。薪の補充、終わりました」
そう言って裏手から入ってきたのは、かつて治癒院の冷たい床で、順番を後回しにされて泣けなかったあの母親だ。
今ではすっかり熱の下がった元気な子供の手を引き、恩返しにと教会の仕事を手伝ってくれている。
そして、部屋の隅で不器用にシーツを畳んでいるのは、見習いの修道服に身を包んだセラフィーナ様だ。
「ちょっと、シーツの端が合っていないわよ! もう、やり直し!」
時折、ノーマ修道女から容赦のない厳しい指導を受けながらも、セラフィーナ様は決して逃げ出したりはしない。
「はいっ、すみません!」と泥臭く返事をし、自分が奪ってしまったものを取り戻し、償うために、彼女は彼女自身の足でしっかりとこの辺境の地に立っている。
かつての他者を見下し、怯えきっていた顔はもうなく、真剣で前向きな眼差しがそこにあった。
そんな温かな喧騒を、少し離れた長椅子に座って静かに見守っている影があった。
カイ・ヴァレンティス。
彼は、膝の上に置いた書類の束に目を通しながらも、時折顔を上げ、平和な礼拝堂の光景に灰色の瞳を細めている。
彼が私を信じ、共に戦ってくれたからこそ守り抜けた、私たちの帰る場所だ。
私は、そんな彼らの姿を背に感じながら、一人静かに祭壇へと向かった。
祭壇の隅、女神像の足元に、私は小さな木札をそっと置いた。
粗削りな木の表面に、私が自分で彫り込んだ三つの文字。
『ルカ』
去年の冬、私がここへ来る前に、たった一枚の毛布を奪われたせいで、寒さと痛みに震えながら一人で逝ってしまった小さな命。
どんなに制度を変えても、大司教様を裁いても、ルカという子供が生き返ることはない。
私の手のひらに残ったあの氷のように冷たい感触を、私は一生忘れることはないだろう。
けれど、もうルカの名前が、誰かの悪意によって帳簿の中で利用され、迷子にされることはない。
ルカの命と引き換えに隠されていた金貨は、今こうして、新しい毛布となって子供たちを温めている。
「ルカ。……今度は、届きました」
私は、木札にそっと触れ、一度だけ、静かに祈りの言葉を落とした。
悲しみだけで立ち止まることは、もうしない。
これは、彼を『なかったこと』にしないための、私なりの小さな決着の儀式だ。
何度も泣き叫んだり、嘆いたりする必要はない。冷たかった掌の奥の残響が、ゆっくりと温かい光に溶けていくような気がした。
「……終わりましたか」
背後から、静かな足音が近づいてきた。
振り返ると、カイ様が私のすぐ後ろに立っていた。
いつものように感情の起伏の少ない声。けれど、その響きには、氷が溶けたような柔らかな温もりがある。
「はい。これで、ルカも迷子にならずに済みます」
私が微笑むと、カイ様は木札に一瞥をくれ、小さく頷いた。
そして、彼はゆっくりと私に向き直り、その深い灰色の瞳で私を真っ直ぐに捕らえた。
「リリアナ」
彼の声色が、少しだけ真剣なものに変わる。
「私はずっと、祈りなどという不確かなものを信じていませんでした。弱者が最後に縋るだけの無力なものだと、そう思っていた」
カイ様は、静かに言葉を紡ぐ。
過去の彼自身が抱えていた傷。理不尽に命を奪われた者たちを救えなかったという、彼の中の深い絶望。
「だが、あなたの祈りは違った。あなたは他人の痛みを拾い上げ、決して諦めず、この腐敗した世界を変えるための入り口を見つけ出した」
カイ様が一歩、私へと近づく。
夜の静けさの中、彼の大柄な影が私を包み込んだ。
「あなたが祈るなら、私はその祈りが二度と踏みにじられない世界を、完璧な制度として作り上げたい。……私に、そのための証拠を集めさせてはくれませんか」
それは、理屈でしか人を守れない彼らしい、ひどく遠回しで、けれど何よりも誠実な告白だった。
「これからは、あなたをただ守るだけの監査官としてではなく。……あなたの隣に立たせてほしい」
カイ様の手が、そっと私の手に触れ、そして優しく、けれど絶対に離さないという強さで握りしめられた。
彼の大きな手から伝わってくるのは、私がずっと探し求めていた、確かな人間の温度だった。
私は、彼の目を真っ直ぐに見つめ返し、強く頷いた。
「はい。私でよければ、どうか隣に置いてください」
私は、握られた彼の手を、もう一方の手で包み込む。
「あなたの隣で。私はもう、誰の名前も、どんな小さな祈りも、冷たい帳簿の中で迷子にはさせません」
私の言葉に、カイ様はほんのわずかに目を瞬かせ、そして、今日一番の、不器用で、ひどく優しい笑みを浮かべた。
「ええ。頼りにしていますよ、聖務監査室初代室長殿」
私たちが王都の聖務監査室と、この辺境を行き来する新しい生活が始まるのは、もう少しだけ先のことだ。
今はただ、この温かい礼拝堂で、二人で並んで今日という日を終えたい。
「さて。感傷に浸るのはこれくらいにしましょう。明日の監査報告書の最終確認がまだです」
カイ様が、空気を切り替えるようにポンと私の肩を叩き、長椅子の上に広げた書類の束へと私を促した。
「もう、カイ様ったら。本当に監査の仕事が好きなんですね」
「仕事ではありません。私たちの生きる道を、確かなものにするための手続きです」
カイ様はペンを手に取り、書類の最終ページを私の前に差し出した。
それは新設される監査室の公的な認可書であり、同時に、私たちの生涯の伴侶としての関係を法的に証明する誓約書でもあった。
私たちは、狭い長椅子に肩を並べて座り、一枚の紙を見つめた。
触れ合う肩から、彼の体温が伝わってくる。
彼に守られ、後ろに隠れるだけの関係ではない。
共に不正と戦い、共に人を救う、対等に並び立つバディとしての居心地の良さがそこにあった。
「日付の確認を」
カイ様が、事務的な、けれどどこか楽しげな声で言う。
「聖暦三百十二年、雪月の十日。間違いありません」
私がはっきりと答えると、カイ様は書類の末尾を指さした。
「では、署名を。ここに」
「はい」
私は彼からペンを受け取り、自分の名前を丁寧に書き込んだ。
カリカリと、冷たい紙の上をペン先が滑る。
『リリアナ・セレスト』。
その横にはすでに、彼らしい流麗で力強いインクの跡で『カイ・ヴァレンティス』と署名が記されている。
二つの名前が、一つの書類の上に、確かに並んで刻まれた。
「確認しました。これで、すべて完璧です」
カイ様が書類を閉じ、私に向かって静かに微笑んだ。
外では、辺境の冷たい風が吹いている。
けれど、私の掌の奥には、もう凍えるような痛みの残響はない。
あるのはただ、隣に並び立つ彼から伝わる、優しくて確かな温もりだけだった。




