第34話 美しい聖堂は誰のために
「……大司教様」
次々と明るみに出る巨悪の全貌に、大聖堂は完全に静まり返っていた。
玉座に取り残されたマティアス大司教様に、私は真っ直ぐに視線を向け、静かに声をかけた。
私の言葉に、大司教様はゆっくりと玉座から立ち上がり、冷たく見下ろしてきた。
その顔には、先ほどまでの慈悲の微笑みはないが、かといって見苦しい狼狽や怒りもなかった。
あくまでも教会を統べる絶対的な指導者としての、静かで冷たい威厳を保ったままだ。
「……すべては、私の目の届かぬところで、愚かな部下たちがしでかした不始末」
大司教様は、膝をつく高位神官たちを冷ややかに一瞥し、淡々と口を開いた。
「一部の司祭たちが、自らの私腹を肥やすために教会の名を騙り、このような悪事を働いていたとは。教会の長として、彼らを監督しきれなかった私の不徳の致すところ。……そう言えば、満足かな?」
それは、この期に及んでまだ己の罪を認めず、すべての責任を切り捨てられた部下たちに押し付けようとする、往生際の悪い自己正当化だった。
群衆から、静かな非難のどよめきが漏れる。
「すべてを知らなかったと、そう仰るのですか」
「ええ。確かに私は、彼らに『教会の権威をより高めよ』とは命じた。だが、まさか孤児院の予算を横領し、治癒の順番を金で売り買いしているなどとは夢にも思わなかった」
大司教様は、嘘をついているようには見えなかった。
いや、彼の中では、それが本当に『真実』なのだ。
彼は、末端の平民たちがどのように踏みにじられ、どのように泣いているかなど、最初から視界にすら入れていなかったのだから。
「リリアナ。私はただ、この国を、そして信仰の秩序を守りたかっただけだ」
大司教様は階段をゆっくりと降り、私の目の前まで進み出た。
その声には、一切の迷いがない。己の正義を疑わない人間の、恐ろしくも透き通った響きがあった。
「かつて、この王都に疫病が蔓延した時のことを覚えているか。治癒師たちの限界が隠せず、万能ではないという『真実』が民に知れ渡った結果、何が起きたか」
大司教様の言葉に、群衆の数人がハッとして顔を伏せた。
「絶望した民衆は暴徒と化し、教会を襲撃した。治癒師たちは石を投げられ、聖堂は破壊された。……真実をありのままに見せすぎれば、愚かな民は不安に駆られ、信仰は容易く崩壊するのだ」
大司教様は、美しい大聖堂の丸天井を見上げ、両手を広げた。
「だからこそ、圧倒的で、絶対に揺るがない美しい『権威』が必要なのだ。奇跡は常に美しくあらねばならず、大聖堂はどこまでも荘厳でなければならない。その完璧な美しさこそが、民に安心を与え、祈る力を与えるのだから」
怒鳴り散らすこともなく、淡々と語られるその信念。
大司教様は、決して金に目の眩んだ俗物ではない。
過去の凄惨な暴動を二度と繰り返さないために、彼なりの冷酷な論理で『全体』を守ろうとしていたのだ。
その薄っぺらくない悪役としての格が、大聖堂の空気を再び重く支配しようとしていた。
「……大司教様」
私は、彼の圧倒的な言葉の波に流されることなく、しっかりと足を踏み締めて言い返した。
「あなたの仰る通り、真実は時に残酷で、人を不安にさせるのかもしれません」
大司教様が、微かに満足そうに目を細める。
「でも」
私は、カイ様が用意してくれた革鞄の中から、あの一冊の寄付台帳を手に取った。
そこには、死んでしまった子供の名前が、冷たいインクで記されている。
「その美しい聖堂を守るために。……ルカは、あの冷たい夜に、たった一枚の毛布を失わなければならなかったのですか?」
私の問いに、大司教様の言葉がピタリと止まった。
「私は、教会の大きな歴史や、国を統べるための難しい秩序の話はわかりません」
私は、抽象的な思想ではなく、私がその手で触れた確かな痛みだけを言葉にする。
「でも、ノーマ様が語ってくれたルカの最期は、本当に冷たかった。治癒院で後回しにされた子供は、本当に熱で苦しんでいました。あなたの言う『民を守るための美しい秩序』は……なぜ、一番弱くて、一番助けを求めている彼らの毛布を奪わなければ、成り立たないのですか」
大聖堂に、再び静寂が降りる。
大司教様は、私の突きつけた具体的な痛みの前に、明確な答えを返すことができなかった。
「それは……」
「あなたが守ろうとしたのは、民ではありません。ただ、美しく飾られた『権威』という名の、空っぽの箱です」
私が言葉で彼の思想の急所を刺し、カイ様が横から静かに、ルカの名前が記された台帳を突きつける。
抽象的な大義名分を、具体的な「ルカ」と「毛布」という数字の痛みが、完全に論破した瞬間だった。
大司教様は、初めて言葉に詰まり、微かに唇を震わせた。
完璧だった彼の仮面に、決定的な綻びが生じたのだ。
「……大司教様」
私は、最後にもう一度、彼に向かって真っ直ぐに問いかけた。
大司教は答えに詰まった。




