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第33話 人、物、紙、署名

カイ様が重厚な革鞄の留め金を外す「カチャリ」という小さな金属音が、水を打ったように静まり返った大聖堂に響き渡った。

それは、偽りの権威に守られた壁を打ち崩し、彼らが『なかったこと』にしてきた人々の痛みと祈りを、白日の下に引きずり出すための静かな号砲だった。




「まず一つ目です」


カイ様は、鞄の中から最初の一葉を取り出し、裁判長席と、その奥の玉座に座る大司教様へ向けて掲げた。


「辺境にある中央直轄の孤児院に対する、王国救恤金からの修繕費および物品購入の納入書。ここには確かに『金貨八十枚』が適正に支払われたと記されています」


「それがどうしたというのだ。書類が適正であるなら、何の問題もないではないか」


大司教側の神官が、忌々しげに言い捨てる。

しかし、カイ様の灰色の瞳は微塵も揺らがなかった。彼は振り返り、開け放たれたままの大聖堂の扉の方へと視線を向けた。


「問題は、紙の上の数字ではなく、現実です。……入ってください」


カイ様の合図とともに、大聖堂の扉から数人の人々が静かに足を踏み入れた。

その先頭を歩いていたのは、見慣れた質素な修道服に身を包んだ、ノーマ修道女だった。

彼女は、煌びやかな貴族や高位神官たちが並ぶこの場所に気圧されることなく、真っ直ぐに私の傍らへと進み出て、深く頭を下げた。


「辺境孤児院の責任者、ノーマと申します。……この納入書にある金貨八十枚分の支援は、私たちの孤児院には、ただの一度も届いておりません」


彼女の、長年の苦労でひび割れた手と、やつれた頬。そして、真実を告げる震えのない声が、大聖堂に響き渡る。


「金貨八十枚」


私は、ノーマ修道女の隣に立ち、群衆へ向かってその数字の本当の意味を語りかけた。


「それは、毛布三十二枚分のお金です。あの孤児院で、寒さに震えながら眠る三十一人の子供たち全員を、凍える夜から守り、温めることができるはずの命の温度でした」


ただの数字が、具体的な子供たちの顔と、奪われた痛みに変換された瞬間。

書類の改ざんに関与していたグラン司祭が、まるで目に見えない力に殴られたように、真っ青な顔をして大理石の床に膝をついた。


「次です」


悪役が一人崩れ落ちても、カイ様の手は止まらない。

彼が次に取り出したのは、あの治癒院で押収した『治癒優先券』の控えと、その裏で交わされていた貴族の紹介状だった。


「治癒の順番が、金貨の額で売買されていた証拠です」


「で、でっち上げだ! それは役人が捏造した偽物だ!」


青ざめたヴィクトル司教が、必死に声を張り上げて言い逃れようとする。

だが、その言葉を遮るように、ノーマ修道女の後ろから一人の女性が進み出た。

あの日、高熱の子を抱きしめ、冷たい床でただじっと順番を待たされていた母親だった。


「偽物なんかじゃありません。私たちは確かに、金貨を払った者たちが先に治癒を受けるのを見ていました」


彼女の目は赤く充血し、声には抑えきれない悲痛な響きが混じっていた。


「私の子供は、熱で苦しんでいました。でも……私が泣けば、この子が自分の死を悟って不安がるかもしれないから。だから私は、泣くことすらできなかったんです……!」


泣けなかった母親の、あまりにも重い真実の声。

その痛みに満ちた告発が突きつけられ、ヴィクトル司教は「あ、あぁ……」と呻き声を漏らし、後ずさって完全に崩れ落ちた。


カイ様が証拠を提示し、私が、そして被害者自身がその痛みの声で裏付けをする。

私が辺境で拾い集めてきた祈りの残響が、彼の冷徹な証拠化の仕組みを通じて、決して言い逃れのできない決定的な『裁き』となっていく。

二人の役割が、今、完璧な形で噛み合っていた。


「まだまだあります。……次は、これです」


カイ様が三つ目に取り出したのは、中央教会の紋章が入った重厚な裏帳簿だった。


「演出局が購入した、特殊な反射石と発光性の薬草粉末の明細。これらはすべて、次期聖女候補の『奇跡』を演出するために使われたものです」


「ふざけるな! そんな帳簿は知らん! すべてはその偽聖女が勝手に……」


演出司祭が叫んだその時、母親の後ろに控えていたセラフィーナ様が、静かに一歩前へ出た。

純白のドレスではなく、地味な見習いの修道服を着た彼女の表情には、かつての怯えや高慢さは微塵もない。

自らの過ちと向き合う、静かな覚悟の顔だった。


「私が使った、光の粉の代金です」


セラフィーナ様の澄んだ声が、大聖堂に響く。


「私が弱かったから、彼らの言う通りに偽りの光を振り撒き、孤児院の屋根を直すための資金を浪費してしまいました。これは、私の罪の証拠であり、彼らの不正の証拠です」


「き、貴様ぁ……っ!」


演出司祭が彼女に掴みかかろうとしたが、エルネスト様の背後に控えていた王国監査院の騎士たちに即座に取り押さえられ、床に押さえつけられた。


毛布を奪った者、治癒の順番を売った者、そして奇跡を偽装した者。

次々と提示される物証と、生々しい人間の痛みの声の前に、教会の威信に隠れていた悪役たちが、ドミノ倒しのように次々と崩壊していく。

大聖堂を包んでいた群衆の敵意は、いつしか深い困惑と、教会への疑念へと完全に反転していた。




「そして、これが最後です」


カイ様が、鞄の底から最も分厚く、厳重に保管されていた一冊の台帳を取り出した。

それは、あの白い祈祷室の奥で、私が自らの手で見つけ出した『本当の寄付台帳』だった。


カイ様が台帳のページを開き、ある一行を冷然と読み上げる。


「中央教会が受け取った特別寄付金の受領記録。……受領者名、ルカ。日付は今年の春、とあります」


その名前が読み上げられた瞬間、私は一歩前へ踏み出し、群衆と、そして玉座の上の大司教様を真っ直ぐに見据えた。


「ルカは……去年の冬に、届かなかった毛布のせいで、寒さに凍えて亡くなっています」


私の静かな声が、巨大な空間に吸い込まれていく。


「もう祈ることも、笑うこともできない子供の名前で。今年の春に、一体誰がお金を受け取ったのですか」


その瞬間、数千人がすし詰めになっているはずの大聖堂が、水を打ったように静まり返った。

誰もが息を呑み、そのあまりにもおぞましい悪意の底知れなさに、言葉を失っていた。

死者の尊厳すらも利用し、架空の受領者として寄付金を隠蔽する。

その事実がもたらした静寂は、どんな怒号よりも重く、冷たく、絶望的だった。


「これほどの大規模な隠蔽工作、末端の司祭の独断で行えるはずがありません」


沈黙を引き裂くように、カイ様の冷酷な追撃が始まる。


「死者名義の寄付台帳だけではない。証人買収を指示した暗号の手紙、大司教専用の祈祷室に飾られた高価な聖画の購入記録、さらには貴族信者向けの謁見室の莫大な改装費……」


カイ様が次々と書類を突きつけるたびに、それまで平然としていた高位神官たちが、次々と青ざめて膝をつき、顔を覆っていく。

彼らを結びつけていた黒い資金の繋がりが、王国法という名の下に完全に暴かれていく。


悪役たちが次々と崩れ去り、教会の権威というメッキが剥がれ落ちた巨大な祭壇。

その最も高い場所、黄金の玉座に座っているのは。


もはや、マティアス大司教様、ただ一人だけになっていた。

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