第32話 冷徹監査官様の帰還
重厚な大聖堂の正面扉が、轟音とともに左右に大きく開かれた。
外から差し込む眩い朝の光が、埃の舞う暗い堂内を一直線に切り裂き、その光の中心に、漆黒の外套を翻したカイ様の姿があった。
待ち焦がれたその姿に、私の胸の奥で、張り詰めていた恐怖が一気に歓喜へと弾けた。
「な、何者だ! ここは神聖なる大審問の場であるぞ!」
神殿騎士たちが慌てて槍を構え、怒号を上げる。
だが、カイ様は彼らの威嚇など意に介する様子もなく、静かな、けれど誰にも止められない確かな足取りで、大理石の床を踏み鳴らして進み出てきた。
その傍らには、銀色の髪を蓄えた、鋭い眼光を持つ初老の男性が並び立って歩いている。
数千の群衆がどよめき、祭壇の上に立つ大司教様でさえ、予期せぬ乱入者の登場にわずかに眉をひそめた。
「そこをどけ」
カイ様の低く冷徹な声が響くと、私を取り囲もうとしていた神殿騎士たちが、そのただならぬ覇気に気圧されたように思わず道を空けた。
彼はそのまま私の傍らまで歩み寄り、私が無事であることを確認するように、一瞬だけその灰色の瞳を和らげた。
「カイ様……!」
「遅くなりました。ですが、約束通り『帰る道』を用意してきましたよ」
カイ様は私に短く告げると、再び冷たく鋭い視線を祭壇の大司教様へと向けた。
大司教様は、すぐにいつもの穏やかな微笑みを取り繕い、口を開いた。
「……辺境の監査官殿。あなたが彼女の保護者であることは存じていますが、この神聖な審理に立ち入る権利はありませんよ。彼女は祈りを証明できず、異端と確定したのですから」
大司教様の言葉は、相変わらず慈悲を装いながらも、絶対的な権力に裏打ちされた圧を放っていた。
しかし、カイ様は微塵も揺るがない。
彼は、私がこの場で何を言われ、どう戦ってきたのかをすべて知っているかのように、静かに、そして力強く言い放った。
「ええ。彼女の聞いた祈りは、証拠にはならない」
その瞬間、大聖堂の空気がピンと張り詰めた。
「祈りだけでは、あなた方の作り上げた腐敗の城を崩すことはできない。……だからこそ、私が、人間の証拠と王国の令状を持ってきたのです」
カイ様のその宣言は、大聖堂の空気を一変させる最大の一撃だった。
「……王国の令状、だと?」
大司教様の顔から、ついに余裕の笑みが完全に消え失せた。
彼の視線が、カイ様の隣に立つ初老の男性へと向けられる。
その男性が着ているのは、教会のものではない。王国の法を司る、監査院の最高位を示す深い濃紺の制服だった。
「エルネスト・グレイ……王国監査院長、自ら足を運ばれるとは」
大司教様の声に、隠しきれない動揺が混じる。
教会の治外法権という名の壁の向こう側から、決して介入してくるはずのなかった絶対的な権力者が、今、この大聖堂の中心に立っているのだ。
エルネスト様は、大司教様の言葉に応えることもなく、ただ無言のまま懐から一巻の羊皮紙を取り出した。
それには、王国を象徴する獅子の紋章が、重厚な蝋印とともに押されている。
「王国監査院の権限において、本件の正式監査への移行を宣言する」
エルネスト様が発した言葉は、ただその短く簡潔な一言だけだった。
長々とした罪状の読み上げも、教会の権威に対する見解も語らない。
ただ『法を発動する』という事実だけを、有無を言わさぬ重みで叩きつけたのだ。
「馬鹿な……我々中央教会の会計に、王国が介入することなど……!」
「救恤金が混ざっている以上、監査の対象となる。……退路はすでに塞いでいる」
エルネスト様は、それ以上何も語らず、ただ静かにカイ様へと視線を向け、頷いた。
法という名の最強の剣は抜かれた。
大司教様がいくら教会の教義や権威を振りかざそうとも、王国の法執行を止めることはできない。
神殿騎士たちは完全に動きを止め、買収された証人たちは青ざめて震え上がり、群衆は事の成り行きを固唾を呑んで見守っている。
完璧に構築されていたはずの大司教の盤面が、たった一つの令状によって、完全に崩壊した瞬間だった。
「……ここからは、私の仕事です」
カイ様は、手に提げていた重厚な革鞄を、私が立っていた被告席の手すりの上に「ドン」と重い音を立てて置いた。
「カイ様」
「あなたは、たった一人でよく耐え抜いてくれました。私が来るまで、決してその芯を曲げなかった」
カイ様が、私の隣に立つ。
少しだけ冷たい彼の外套の気配が、すぐ横にある。
私が最も恐れていた『一人きりの絶望』は、彼が私の隣に戻ってきてくれたことで、完全に消え去っていた。
私たちは、あの一緒に帰るという約束の前半を、今ここで確かに果たしたのだ。
「あなたが彼らの隠した入り口を見つけ、心を動かした。だから、ここから先は私が、彼らの退路を断つ証拠を出します」
カイ様は、私に向かってそう言うと、革鞄の留め金を外した。
大司教様や神官たちが青ざめた顔で見つめる中、彼は決して急ぐことなく、中から分厚い書類の束を取り出していく。
それは、私たちが辺境の孤児院から始まり、治癒院で、そして王都の隠れ家で、一つ一つ拾い集めてきたものだ。
彼らが『なかったこと』にしてきた人々の痛みと祈りが、今は、誰の目にも明らかなインクと数字の塊となって、ここにある。
私とカイ様。
二人で一つの完璧な刃となって、この腐りきった秩序を裁くための準備はすべて整った。
もう、誰も私たちの歩みを止めることはできない。
カイ様が、一番上にある分厚い台帳の表紙に手をかけた。
大聖堂に集まったすべての視線が、その彼の手元へと集中する。
ここから、帳簿が開かれる。




