第31話 異端と呼ばれた聖女
「リリアナ・セレスト。お前は、この美しき聖堂で、確かに『祈りの声』を聞いたと申すのだな?」
大司教様の声は、どこまでも深く、慈悲に満ちた響きを持っていた。
だが、その穏やかな響きこそが、私を逃げ場のない断罪の淵へと追い詰めるための、最も鋭く冷酷な刃だった。
見上げるほど高い天井を持つ大聖堂の空間に、大司教様の声が静かに、しかし絶対的な威厳を持って響き渡る。
私の周囲を取り囲む数千の群衆が、その問いかけを聞いて息を呑む気配がした。
「……はい。私は、痛みに苦しむ人々の祈りを、この耳と掌で確かに聞きました」
私が静かに答えると、一瞬の静寂の後、大聖堂が爆発したかのような怒号に包まれた。
「無能のくせに、嘘をつくな!」
「女神様を愚弄する気か!」
「魔女め! 火炙りにしてしまえ!」
四方八方から突き刺さる罵声と、憎悪に満ちた視線。
貴族たちは扇子越しに冷笑を浮かべ、神官たちは聖典を掲げて私を睨みつけている。
大聖堂という巨大な箱の中で、私は完全に孤立していた。
私を庇う声は一つもなく、私が頼るべき証拠も、証人たちも、すべて大司教様の力によって無効化されている。
大司教様は、群衆の怒りが十分に高まるのを待ってから、軽く右手を挙げてその騒ぎを制した。
たったそれだけの動作で、大聖堂は再び水を打ったような静けさを取り戻す。
それが、彼の持つ圧倒的な支配力だった。
「祈りを聞いた、と。それはとても尊いことだ。だが、リリアナよ」
大司教様は、玉座から私を見下ろし、まるで哀れな迷い子を諭すように言葉を紡いだ。
「目に見えないものを根拠に、教会の秩序を乱し、清らかな神官たちを貶めることは許されない。お前が本当に祈りを聞いたというのなら、今、この場で皆の前に証明してみせなさい」
証明しろ。
その言葉が、重い石のように私の肩にのしかかる。
「証明できねば、お前の言葉は教会の権威を傷つけるための悪質な嘘……すなわち、女神の名を騙る『異端』の罪となる。異端には、等しく浄化の炎が与えられねばならない」
優しく穏やかな口調のまま、大司教様は明確な死の脅しを突きつけてきた。
私一人に、数千の群衆の前で、目に見えない祈りを客観的に証明しろと迫っているのだ。
できなければ、死。
あまりにも理不尽で、最初から私を殺すためだけに用意された残酷な問いだった。
額から冷たい汗が流れ落ちる。
被告席の手すりを握る私の手は、白く鬱血するほどに震えていた。
かつて、王都の祈祷室に幽閉される直前の審問でも、大司教様は私に同じ問いを投げかけた。
『祈りを誰が証明するのか』と。
あの時の私は、その圧倒的な圧力の前に言葉を失い、ただ耐えることしかできなかった。
証拠を集め、論理を組み立てるのはカイ様の役目で、私にはどうすることもできないと、どこかで諦めていたからだ。
だが、今の私は違う。
王都の隠れ家で、カイ様と一緒に帳簿のページをめくった夜。
『ルカ』という死んだ子供の名前を、私自身の目で見つけ出したあの瞬間。
私は、祈りを聞くだけの受け身な存在から、祈りを『証拠』にするための戦いに、自分の足で踏み出したのだ。
「……証明は」
私の小さな呟きに、大司教様が眉を動かした。
「何か言ったかな?」
「客観的な証拠は、今ここにはありません。ですから、私一人では、証明することはできません」
私がはっきりとそう口にすると、大聖堂は「やはり嘘だったのか」「自白したぞ!」という嘲笑と歓喜の声で大きく揺れた。
大司教様もまた、勝利を確信したように、満足げに深く頷いた。
「自らの非を認めたか。ならば――」
「でも!」
私は、群衆の嘲笑を切り裂くように、声を張り上げた。
震えは、もう止まっていた。
足にしっかりと力を込め、背筋を伸ばし、祭壇の上から私を見下ろす大司教様の深淵のような瞳を、真っ直ぐに睨み返す。
「でも、なかったことにはしません!」
大聖堂の空気が、一瞬だけピタリと凍りついた。
異端として火炙りにされる恐怖よりも、あの辺境で私を信じてくれた人々の祈りが、ただの嘘として処理されることの方が、私にとってはよほど恐ろしいことだった。
「あなたがどれだけ帳簿を書き換えようと、証人たちを脅そうと! 雨漏りのする部屋で冷たくなっていったルカの痛みや、順番を後回しにされたお母さんの流した涙は、絶対に幻なんかじゃありません!」
私は、カイ様から教わった言葉を、私自身の強い意志として大司教様に叩きつけた。
「私一人では証明できなくても、彼らの流した血と涙は、あなたの足元に確かに存在しています。私は、その祈りを……奪われたものを、絶対に諦めません!」
成長後を崩さない。
これが、冷徹な監査官と共に歩いてきた、私の覚悟だった。
私の叫びが響き渡った後、大聖堂は不気味なほどの静けさに包まれた。
群衆は、圧倒的な権力者である大司教に向かって、一歩も引かずに言い放った私の姿に、戸惑いと動揺を隠せないでいた。
大司教様の顔から、ついにあの穏やかな慈悲の微笑みが消え去った。
冷酷な、すべてを排除しようとする絶対権力者の素顔がそこにあった。
「……愚かな。もはや、これ以上の問答は無意味だ」
大司教様は低く、氷のような声で宣告した。
「己の罪を悔い改めるどころか、神聖なる場でさらに妄言を重ねるとは。その穢れた魂ごと、今すぐここで浄化してやろう。神殿騎士よ、この魔女を捕らえよ!」
大司教様の命令を受け、重武装した神殿騎士たちが、いっせいに私を取り囲むように階段を駆け下りてくる。
金属の鎧が擦れる音が、大聖堂に不吉に響き渡った。
絶体絶命。
私の言葉がどれほど芯の強いものであっても、物理的な力の前には抗いようがない。
騎士の手が、私の腕を乱暴に掴もうと伸びてきた。
だが、私は決して絶望していなかった。
私がここで立ち止まらずに時間を繋げば、彼が必ず道を切り開いてくれると、心から信じていたからだ。
『では、帰る道を用意します』
昨夜、隠れ家の窓辺で交わしたあの約束。
私の半身とも言える、あの冷徹な監査官が、私を見捨てるはずなど絶対にない。
騎士の指先が私の肩に触れる、まさにその一瞬前のことだった。
鼓膜を突き破るような、凄まじい轟音が響き渡った。
バァンッ!!!!
群衆が悲鳴を上げて振り返る。
祭壇の大司教様も、神殿騎士たちも、皆が一斉にその音の方向へと視線を向けた。
何百人もの力で閉じられていたはずの、大聖堂の重厚な正面大扉。
それが今、両側から力強く、完全に押し開かれていたのだ。
外から差し込む眩い朝の光が、埃の舞う大聖堂の暗がりを一直線に切り裂いて、真っ直ぐに私のもとへと届く。
そのとき、大聖堂の扉が開いた。




