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第29話 大聖堂前夜、一緒に帰る約束

あとは大聖堂で開くだけ。

その言葉の通り、カイ様の手によって完璧に整理された膨大な証拠の束は、重厚な革鞄の中にしっかりと収められていた。

あとは、夜が明けるのを待つだけだ。

王都の裏通りにあるこの隠れ家の執務室は、暖炉の火が静かに燃える音だけが響き、ひどく静かだった。

嵐の前の静けさ、という言葉があるが、今の私たちを包んでいるのは、不安を煽るようなものではない。

すべてをやり遂げるための準備を終え、ただ静かにその時を待つ、澄み切った冬の夜空のような静謐さだった。


私は窓辺に寄りかかり、厚いカーテンの隙間から王都の夜景を見下ろしていた。

雪の積もった屋根の向こう、暗闇の中に、大司教様がいる中央大聖堂の巨大な尖塔が黒い影となってそびえ立っている。

いよいよ明日、すべてが決まる。

私とカイ様が辺境で拾い集めてきた祈りの残響が、大司教様の作り上げた偽りの秩序を裁くための剣となるのだ。


「……眠れませんか」


ふと、背後から低く静かな声がかけられた。

振り返ると、カイ様が二つの温かいカップを持って立っていた。

ほのかに甘いカモミールの香りが、冷たい空気に溶けてふわりと漂ってくる。


「ありがとうございます。……はい。少しだけ、緊張していて」


私は彼からカップを受け取り、両手で包み込むようにして持った。

指先から伝わる心地よい温もりに、ホッと小さく息をつく。

カイ様は自分のカップを手にすると、私の少し斜め後ろ、窓辺の壁に静かに寄りかかった。

普段、辺境の執務室で顔を合わせている時よりも、ずっと近い距離。

彼の微かな衣擦れの音と、落ち着いた呼吸の気配が、すぐ傍で感じられた。




「明日の公開大審問、大司教はあらゆる手を使ってあなたを異端として断罪しようとしてくるでしょう。私やエルネスト院長が踏み込むまでの間、あなたは一人でその圧倒的な敵意の矢面に立たされることになる」


カイ様の声は、いつものように淡々としていた。

けれど、その言葉の端々には、私が傷つくことを案じる、不器用な気遣いがはっきりと滲んでいるのがわかった。


「……怖いですか」


「はい」


私は、強がることも誤魔化すこともせず、素直に頷いた。


「あの大聖堂は……私が幽閉されていたあの白い祈祷室は、とても冷たくて、痛む人が入れない場所でした。あそこにいると、自分の声すら誰にも届かなくなってしまうような気がして……怖いです」


私はカップを握る手に、ぎゅっと力を込めた。

大司教様のあの穏やかで慈悲に満ちた、だからこそ絶対に逆らえないと錯覚させられるような恐ろしい微笑みが脳裏をよぎる。


「怖いなら、逃げてもいい」


カイ様が、ポツリと、夜の闇に溶けるような声で呟いた。


「私が集めた証拠と令状があれば、大司教を失脚させることは十分に可能です。あなたが直接あの場に立たずとも、私と監査院だけで決着をつけることもできる。今からでも、あなただけを安全な辺境へ逃がす手立てはあります」


それは、冷徹な監査官としての合理的な判断ではない。

彼が私を心から案じ、少しでも危険から遠ざけようとしてくれる、優しい本音だった。

私は、彼が淹れてくれたハーブティーを一口だけ飲み、その温かさを胸の奥にまで広げた。


「お気遣い、ありがとうございます。でも……」


私はゆっくりと振り返り、壁に寄りかかるカイ様を真っ直ぐに見上げた。


「怖いです。でも……怖い場所に、まだ誰かの祈りが残っているなら。私は、行きます」


怖いからといって逃げてしまえば、あの冷たい場所で踏みにじられている痛みを、完全に見捨てることになる。

私が証言者たちに「なかったことにはしない」と約束したように。

私自身も、彼らの祈りを置き去りにして、逃げるわけにはいかないのだ。


「……そうですか」


カイ様は、私の強情な答えを最初から予想していたかのように、かすかに目を伏せて息を吐いた。


「なら、逃げ道は作りません」


彼がゆっくりと目を開け、私を真っ直ぐに見つめ返す。

夜の静寂の中、彼の灰色の瞳だけが、静かに熱を帯びて光っていた。


「では、帰る道を用意します」


その言葉に、私の胸が大きく跳ねた。


逃げ道ではなく、帰る道。

戦いから目を背けて安全な場所へ隠れるのではなく、すべてを終わらせて、胸を張って日常へ戻るための道。


「……一緒に、帰ってくれますか?」


私が、祈るように、すがるようにそう尋ねると。


カイ様は、私の方へと一歩だけ足を踏み出し、本当に手が触れ合いそうなほど近い距離で、力強く頷いた。


「ええ。そのために、来たのですから」


夜の静けさに溶けるような、低くて、どこまでも優しい声だった。


ただ守り、守られるだけの関係ではない。

証拠を集める冷徹な監査官と、祈りを聞き届ける不器用な聖女。

互いに欠けたものを補い合い、共に戦い、そして共に帰る。

その確かな約束が、私の心にあった恐怖を、甘く温かな勇気へと塗り替えていく。




私たちは、それ以上言葉を交わさなかった。

交わす必要がなかった。

ただ、窓辺に並んで立ち、冷たい夜の空気が少しずつ白んでいくのを、共に静かに見つめていた。

時折、カイ様の袖が私の肩に触れる。その度に、彼がすぐ隣にいてくれるという事実が、私を限りなく安心させてくれた。


怖さはまだある。

大司教様の圧倒的な権威を前に、私たちの用意した証拠がどこまで通用するのか、完璧な保証はない。

それでも、私の隣にはカイ様がいてくれる。

彼が私を信じ、私が彼を信じている。

その事実だけで、こんなにも心が震え、戦いへと向かう高揚感が体の奥底から湧き上がってくるのだ。


やがて、遠くの空がうっすらと群青色から紫、そして淡い橙色へと染まり始めた。

王都の街に、冷たくも澄んだ朝の空気が流れ込んでくる。

夜が、終わる。


「……夜が明けますね」


私の呟きに、カイ様は静かに頷き、傍らに置かれた重厚な革鞄を手に取った。

その中には、私たちがこれまでに集め、束ねた、すべての人々の思いが詰まっている。


「行きましょう、リリアナ」


「はい、カイ様」


私たちは、隠れ家の重い扉を開け、朝の眩しい光の中へと足を踏み出した。


ルカの名前を利用した死者の寄付。

孤児院の屋根を光の粉に変えた悪意。

命の順番を金貨で量った傲慢。

それらすべてを裁き、祈る人々の声を取り戻すために。


朝が来る。

公開大審問が始まる。

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