第27話 祈りを集める聖女
死者の名前を利用した組織的な隠蔽を完全に立証するためには、帳簿の数字を裏付けるための『生の声』がどうしても必要だった。
私は、中央教会の冷たい尖塔が見下ろす王都の裏通りや、不当に教会を追われた人々が身を寄せる貧民街の片隅へと足を運んでいた。
絶対的な権力に対する深い恐怖で口を閉ざす彼らに、私から証言を強要することだけは、絶対にしないと心に決めて。
「聖女様……。お気持ちは嬉しいですが、私たちにはどうすることもできないのです」
薄暗い路地裏で、かつて中央孤児院で働いていたという年老いた修道女が、身を縮めながら首を横に振った。
彼女の着ている粗末な服はすり切れ、その顔には長年の苦労と疲労が深く刻まれている。
「あの恐ろしい大司教様に逆らえば、異端の烙印を押され、命すら狙われかねない。残された家族にまで危害が及ぶかもしれないのです。私たちのような平民は、ただ黙って耐えるしかない……」
彼女のひび割れた手から伝わってくるのは、圧倒的な権力に対する深い絶望と、諦めの念だった。
無理もない。教会の権威は王都の民にとって絶対であり、逆らうことは文字通り社会的な死を意味するからだ。
私は、治癒院で後回しにされた民や、理不尽な理由で解雇された見習い神官、下働きの者たちにも声をかけて回った。
だが、誰もが怯え、頑なに口を閉ざしてしまう。
「無理にとは言いません」
私は、震える老修道女の冷たい手を、両手でそっと包み込んだ。
「話したくなければ、話さなくていいです。あなたがこれ以上、怖い思いをする必要はありません」
私の言葉に、老修道女は驚いたように顔を上げた。
普通なら、「正義のために証言してくれ」「不正を暴くために協力してくれ」と説得するところだろう。
でも、痛みに耐えてきた彼らに、これ以上の犠牲や勇気を強いる権利は誰にもない。
「でも、なかったことにはしません」
私は、彼女の潤んだ目を真っ直ぐに見て、はっきりと告げた。
「あなたが奪われた居場所も、流した涙も、私が必ず証明します」
それは、祈るだけで何もできなかった私が、彼らの痛みに寄り添うための、私なりの決意だった。
その日の午後。
私は教会の裏手にある薄暗い資材置き場の陰で、以前、あの白い祈祷室で出会った下働きの少女と密かに接触していた。
彼女から、内部の不審な金の流れについて、少しだけ話を聞き出せそうになった、その時だった。
「おい、こんなところで何をしている」
突然、冷たく威圧的な声が響き、重い足音がこちらへ近づいてきた。
大司教派の高位神官だ。定期的な見回りだろう。
(見つかれば、彼女が危ない……!)
私は咄嗟に少女を木箱の奥の暗がりへと押し込み、自分だけが通路の中央へと進み出た。
「……リリアナ。異端として破門されたお前が、まだ教会の敷地内をうろついているのか」
神官が、憎々しげに私を睨みつける。
私の心臓は早鐘のように激しく打ち鳴らされていたが、表情には一切出さないよう必死に平静を装った。
「申し訳ありません。大審問を前に、かつて祈りを捧げたこの場所でもう一度、女神の声を思い返したかったのです」
私は両手を組み、静かに目を閉じて祈りの姿勢をとった。
神官は不審そうに私の周囲を見回したが、幸い、暗がりに息を潜める少女には気づかなかったようだ。
「ふん。いくら祈ろうと、お前の罪は消えん。さっさと立ち去れ」
神官が忌々しげに舌打ちをして去っていくまで、私は背中に冷や汗を流しながら、ひたすら祈りのポーズを崩さなかった。
足音が完全に遠ざかってから、私は木箱の奥で震えている少女に「もう大丈夫です」と告げた。
「聖女様、ごめんなさい……私、やっぱり怖くて……」
「いいの。ごめんなさい、私の方こそ、あなたを危険な目に遭わせてしまって」
私は彼女を無理に引き止めることはせず、ただ安全な場所まで送り届けた。
証言を集めるのは、想像以上に困難な道のりだった。
それでも、私は諦めることなく、ただひたすらに彼らの痛みを聞き、強要することなく寄り添い続けた。
そして、その私の不器用な足掻きを、決して無駄にしない人がいる。
王都の隠れ家に戻ると、カイ様がいくつもの書状を素早く書き上げ、密偵たちに的確な指示を出していた。
「カイ様、証言はまだ……」
「焦る必要はありません。あなたが彼らの心を開かせようとしていることは、確実に伝わっています」
カイ様は私を一瞥し、そして一枚の重厚な書状を私に見せた。
「あなたがどれほど彼らの心に寄り添っても、彼らのその後の安全と生活が担保されなければ、誰も口を開くことはできません。だから、私が仕組みを作りました」
そこに記されていたのは、レイゼル辺境伯家と王国監査院の法的な権限を用いた、強固な『証人保護制度』の確約書だった。
「証言台に立つ者の身の安全、そして報復から彼らとその家族を完全に保護するための手配は、すべて私が裏で整えました。彼らはもう、大司教の権力を恐れる必要はない」
カイ様は、私が感情で動いた分を、完璧な理屈と制度で支えてくれている。
ただ「助けたい」と願う私の優しさを、彼が現実の世界で機能する確かな『力』に変えてくれたのだ。
その翌日の夜だった。
隠れ家の重い扉が、控えめにノックされた。
扉を開けると、そこには、あの薄暗い路地裏で怯えていた老修道女が、フードを深く被って立っていた。
彼女の背後には、何人もの下働きや、治癒院を追い出された平民たちの姿がある。
「聖女様。……そして、監査官様」
老修道女は、震える手でフードを下ろし、私たちを真っ直ぐに見つめた。
「私たちを、法で守ってくださるというのは、本当ですか」
「ええ。王国監査院の権限において、あなた方の安全は絶対に保証します」
カイ様が力強く断言すると、彼女は深く息を吐き、そして自らの意志で、はっきりと名乗り出た。
「私の名前を使ってください。ずっと……誰かがこの理不尽を止めてくれるのを、待っていたんです」
強要されたからではない。
私が彼らの痛みを『なかったこと』にしないと誓い、カイ様が彼らを守る『仕組み』を用意したことで。
恐怖に縛られていた人々が、自らの意志で立ち上がり、確かな一歩を踏み出してくれたのだ。
その一人を皮切りに。
沈黙していた人々が、少しずつ口を開き始めた。




