第26話 死んだ子供の名前で受け取られた寄付
『受領者名:ルカ』
『日付:今年の春』
そのたった一行の短い文字の羅列を見つけた瞬間、私の全身からサァッと血の気が引き、周囲の音が完全に遠のいた。
王都の隠れ家にある薄暗い執務室。
下働きの少女が教えてくれた場所から、カイ様の部下が回収してきた『本当の台帳』。
その中に記されていた寄付金の受領記録を、カイ様に教えられた通りになぞっていた私の指先は、ひどく冷たくなって震えていた。
「どうしました、リリアナ」
私の異変に気づき、隣で別の書類を確認していたカイ様が声をかけてきた。
私は震える指先で、帳簿のその一行を指し示した。
「カイ様……。この『ルカ』という名前は……」
私の掠れた声を聞き、カイ様は怪訝そうに目を細めて帳簿を覗き込んだ。
「中央教会が、貴族からの特別寄付金を受領した記録ですね。受領者名はルカ。日付は今年の春……それがどうかしましたか?」
数字と制度を追うカイ様にとって、それはただの無数にある受領者名の一つにすぎない。
しかし、私にとっては違う。
決して忘れてはいけない、祈りの残響の記憶だった。
私が初めてレイゼル辺境伯領へ追放されたあの日。
寒さに震える孤児院で、ノーマ修道女が涙ながらに語った名前。
毛布が足りず、去年の冬に命を落としたという、幼い子供の名前。
「この子は……去年の冬に、亡くなっています」
私の言葉に、カイ様がハッとして目を見開いた。
「去年の冬に亡くなっているのに。どうして、今年の春に、この子が寄付金を受け取ったことになっているのですか?」
静かな執務室に、私の問いかけがポツリと落ちた。
カイ様の表情が、瞬時に極寒の理性へと切り替わり、彼の手が帳簿のページを素早く捲り始める。
私は、ただその帳簿の文字を見つめたまま、胸の奥底で、これまでに感じたことのないほど暗く重い感情がドロドロと膨れ上がっていくのを感じていた。
「……死者名義の寄付受領、ですか」
カイ様が、氷のような声で呟いた。
「貴族たちから集めた莫大な寄付金を、中央教会が直接吸い上げれば、監査の目にとまる。だから彼らは、辺境の孤児院の子供たちに『寄付を分配した』という形にして、書類上で資金を分散させていた」
カイ様は、まるで吐き気を催すような事実を、淡々と紐解いていく。
「しかし、生きている人間の名前を使えば、いつか本人や関係者から足がつく。だから彼らは……最も足がつきにくく、文句を言うことのない『死んだ子供の名前』を、架空の受領者として利用したのでしょう」
「……どうして」
私の口から、無意識のうちに声が漏れた。
怒鳴るわけでも、泣き叫ぶわけでもない。
ただ、ひどく静かな、底冷えするような怒りが、私の心臓をぎゅっと掴んで離さなかった。
「この子は……ルカは、もう祈れません」
寒さに震え、助けを求めながら、薄い布切れの中で冷たくなっていった小さな命。
大司教様が『美しい秩序』と呼ぶものの陰で、彼らが毛布を奪ったせいで死んでしまった子供だ。
「もう二度と、温かい毛布にくるまることも、笑うことも、祈ることもできないのに。なのに、どうして彼らは、この子の名前でお金を受け取っているのですか」
私の静かな問いに、カイ様は答えない。
いや、答える言葉などないのだ。
これは、ただの帳簿の数字の操作ではない。
死者の尊厳すらも、教会の権威を飾り立てるための金貨に変えて利用する、あまりにもおぞましい悪意そのものだったからだ。
「許せません」
私は、台帳の『ルカ』という文字の上に、そっと手を置いた。
私が聞いた祈り。私が触れた痛み。
それらをすべて『幻』だと言い捨て、なかったことにしようとしたあの白い部屋の大司教様の顔が脳裏に浮かぶ。
「絶対に、なかったことにはさせません。彼らが奪ったものを、私は必ず返させます」
感情を抑えきれずに震える私の手を、上から別の手がそっと包み込んだ。
カイ様の、少しだけ冷たくて、けれど確かな力強さを持った手だった。
「ええ。あなたのその怒りは、正しい」
カイ様は、私を哀れむわけでも、落ち着かせようとするわけでもなく、ただ対等な戦友として、私の静かな激情を真正面から受け止めてくれた。
「祈りは証拠になりません。ですが、あなたが自らの力で見つけ出したこの死者の名前は、彼らの悪意を証明する絶対的な証拠になります」
カイ様は私の手から台帳をゆっくりと引き寄せると、それを別の資料の束の上に置いた。
「この手口は、一人や二人の名前を借りた程度で成立するものではありません」
彼が指し示した別のページには、ルカと同じように、辺境の孤児院や治癒院で『去年の冬』に亡くなったはずの子供たちや老人たちの名前が、今年の春以降の受領者としてズラリと並んでいた。
「彼らは、組織的に死者の名前を利用して寄付金を隠蔽していた。これほどの規模の隠蔽工作を、末端の司祭の独断で行えるはずがない。……完全に、大司教へと繋がりました」
カイ様の声には、これまでの冷静さの中に、敵を完全に追い詰めた冷酷な狩人の響きが混じっていた。
「あなたの見つけた怒りを、私が必ず『裁き』に変えてみせます。あの傲慢な大司教の喉元を食い破る、決定的な刃として」
彼はそう言って、私に深く頷いてみせた。
祈りだけでは届かなかった場所へ。
私が入り口を見つけ、彼が出口の扉をこじ開ける。
その約束の通り、彼が私の怒りを最大限の武器として磨き上げてくれる。
私たちの視線が重なり合った時。
台帳に記されていた死者の名は、決してルカ一人ではなかった。




