第25話 証拠になるまで歩きます
私を助け出すための強行ルートではなく、私と共に戦うための包囲網を築くこと。
カイ様がその決断を下し、密かに手配してくれた王都の隠れ家で、私たちは数日ぶりに顔を合わせた。
「無茶なことをする」という呆れと、それでも私の選択を受け入れてくれた確かな信頼が、その灰色の瞳には宿っていた。
「……無事に抜け出せて何よりです」
中央大聖堂の地下通路を抜け、カイ様の部下の手引きで隠れ家へと辿り着いた私を、カイ様は短い言葉で出迎えた。
その手には、私が下働きの少女から聞き出し、彼らに回収を頼んだ『本当の台帳』がしっかりと握られている。
「カイ様。私の方こそ、我儘を言って申し訳ありません」
私は深く頭を下げた。
私が「戻る」と言い張らなければ、彼はもっと安全で確実な方法で私を辺境へ連れ帰ることができたはずだ。
けれど、カイ様は静かに首を横に振った。
「あなたの我儘には慣れました。それに、あなたが残ると決めたからこそ、この決定的な証拠を手に入れることができた。……祈りは証拠にはならないと、私は何度も言ってきましたが」
カイ様は、手元の台帳をポンと軽く叩いた。
「祈りを見つけるあなたのその強情さがなければ、この証拠に辿り着くことはできなかった。それは事実です」
「カイ様……」
「ですが、ここから先は祈りだけでは戦えません。大聖堂で開かれる公開大審問で、大司教の嘘を完全に暴くためには、あなた自身がこの台帳の『意味』を理解し、証拠として機能させる必要があります」
カイ様の言葉に、私はギュッと両手を握りしめ、顔を上げた。
「はい。祈りは証拠にならないのでしょう。なら、証拠になるまで、一緒に歩かせてください」
私はもう、ただ祈って誰かの助けを待つだけの庇護対象ではない。
彼が私を信じて『戻る道』を用意してくれたように、私も彼と同じ盤面に立ち、戦うための武器を手に入れたい。
私の真っ直ぐな宣言に、カイ様はほんのわずかに目を細め、小さく頷いた。
「では、始めましょう」
カイ様は執務机に『本当の台帳』と、大司教側が用意した『偽の帳簿』の写しを並べて広げた。
私は彼と肩を並べるようにして机に向かい、そこに記された無数の数字と文字の羅列に目を落とした。
「いいですか。帳簿を見る時、最初に確認すべきは『日付』と『署名』です。ここが矛盾していれば、その支出は疑わしい」
カイ様の長く冷たい指先が、ページの一点を指し示す。
「次に『納入数』。孤児院の毛布の時と同じです。実際に届いた数と、ここに書かれている数が合っているか。そして……最も重要なのが『受領者名』です」
「受領者名……」
「ええ。誰が、誰のためにその金貨を受け取ったのか。大司教のような狡猾な人間は、資金の横流しを隠すために、架空の人物や、すでに存在しない人間の名前を使って寄付を受領したように偽装することがあります」
カイ様は、私にもわかるように、一つ一つの項目の意味を丁寧に、根気よく教えてくれた。
私は彼が指し示す項目を必死に目で追い、頭の中に叩き込んでいく。
「日付、署名、納入数……そして、受領者名」
私は呟きながら、台帳のページを自分の手でめくってみた。
最初はただの黒い虫の群れのように見えていた文字たちが、カイ様の言葉という鍵を得たことで、少しずつ意味のある情報の糸として繋がり始めていくのを感じる。
これが、彼がいつも見ている世界。
感情を持たない数字の裏側に隠された、人間の生々しい欲望と嘘の痕跡を読み解く力なのだ。
「……どうやら、少しは目が慣れてきたようですね」
数時間が経過し、私が一人でいくつかの矛盾点を指摘できるようになると、カイ様は少しだけ口角を上げて言った。
「はい。まだまだカイ様には及びませんが……数字が、少しずつ読めるようになってきました」
「焦る必要はありません。今はまだ、入口の探し方を覚えただけですから」
カイ様は、私が読んでいた台帳のページに、あの辺境で使っていたのと同じ革のしおりを静かに挟み込んだ。
「無理なら、私を呼んでください。あなたが迷った時は、私が必ず道を作ります」
「無理をする前に、ですか?」
私が以前、彼に言われた言葉をそのまま返すと、カイ様は一瞬だけ言葉に詰まり、やがて視線を逸らして微かに息を吐いた。
「……できれば」
その不器用で、素直になれない気遣いがたまらなく嬉しくて、私は思わずふふっと笑みをこぼしてしまった。
彼の言葉はいつも理屈っぽくて冷たいけれど、その根底には、私を絶対に一人で戦わせないという確かな温度がある。
「わかりました。無理をする前に、カイ様を呼びますね」
私は微笑みながら、彼がしおりを挟んでくれたページへと再び視線を戻した。
それは、中央教会の各施設へ分配されたという『寄付台帳』の項目だった。
カイ様に教わった通り、『日付』『署名』『納入数』、そして『受領者名』を順番に確認していく。
何気なく文字の列を指でなぞっていた私の手が、ある一行の前で、ピタリと凍りついたように止まった。
「……え?」
「どうしました?」
私の異変に気づき、カイ様が覗き込んでくる。
しかし、私は彼の声にも応えられず、その名前に釘付けになっていた。
受領者名。
そこに記されていたのは、決してそこにあるはずのない、私が絶対に忘れてはいけない『知っている名前』だった。




