第22話 冷徹監査官が祈りを嫌う理由
王都の中央大聖堂にある、祈りが排除された白い部屋。
そこにリリアナがただ一人で幽閉されたという報告を受けた瞬間、カイ・ヴァレンティスの胸の奥底で、かつて彼自身が固く封印したはずの古い傷痕が、激しい痛みとともに音を立てて弾け飛んだ。
数年前。
カイ・ヴァレンティスは、王国監査院の歴史上最年少で監査官の地位に就いた、極めて優秀で冷徹な男だった。
数字は嘘をつかない。帳簿を開き、法の網を緻密に張り巡らせれば、どんな巨悪でも必ず裁くことができる。
そう信じて疑わなかった彼が、初めて直面した『敗北』。
それが、王都の中央教会が絡む、とある孤児院の救恤金横領事件だった。
当時のカイは、現場に遺された数々の不審な点から、素早く確かな証拠を掻き集め、教会の不正を完全に立証できるところまで追い詰めていた。
しかし、いざ正式な告発に踏み切ろうとした矢先、上層部からの見えない手が彼の証拠をすべて握り潰した。
教会の持つ絶大な権威と、貴族たちの複雑に絡み合った政治的圧力が、若き監査官の正義をいとも簡単に捻り潰したのだ。
「どうか、助けて……」
証拠が握り潰され、監査が打ち切られた翌日の冬の朝。
カイは、その孤児院の冷たい路地裏で、彼が救うはずだった一人の小さな子供が、毛布すら与えられずに息絶えているのを発見した。
子供の冷え切った小さな手は、最期まで誰かに助けを求めるように、虚空へ向かって固く祈りの形を結んでいた。
カイは、その光景を前にして、初めて己の無力さを呪った。
子供の悲痛な祈りは、確かに空へと放たれていたはずだ。
だが、その祈りに応えるはずの『人間が作った制度』は、金と権力の前にあまりにも脆く崩れ去ってしまった。
彼は、決して『祈り』そのものを嫌っているわけではない。
ただ、弱者が最後に縋るその切実な祈りを、彼らを物理的に守るための強固な制度や証拠へと変えきれなかった、過去の自分自身の未熟さが何よりも許せなかったのだ。
二度と、あんな理不尽な死を見たくない。
だからこそ彼は、曖昧な善意や祈りを信じることをやめ、極寒の辺境でただひたすらに、誰も覆すことのできない完璧な証拠と仕組みだけを研ぎ澄ませてきたのだ。
「カイ様。中央大聖堂に潜り込ませた内通者からの報告です。リリアナ様は、大司教専用の特別祈祷室に軟禁されたとのこと」
辺境伯家が王都に構える隠れ家の執務室。
カイは、部下からもたらされたその報告を聞いた瞬間、手にしていた羽ペンを「パキッ」という乾いた音とともに真っ二つにへし折っていた。
「……あの部屋は、大司教の息がかかった者以外は一切近づけない場所だ。食事には毒や自白剤が盛られる可能性があり、最悪の場合、闇から闇へ『病死』として処理される危険性すらある」
カイの声は、いつものように低く、淡々としていた。
だが、その灰色の瞳には、部下が見たこともないほど昏く、激しい感情の渦が渦巻いていた。
常に完璧な理性を保ち、どんな不利な状況でも決して取り乱すことのなかった男が、ただ一人の少女の身の危険を知り、明確に感情を乱していたのだ。
「……私の落ち度だ」
カイは、折れた羽ペンを無造作に机に放り投げ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「彼女は、私を信じてあの魔窟へ足を踏み入れた。『逃げ道も、戻る道も作る』と約束したというのに、私はまた、あの腐りきった権力の手から……」
かつて路地裏で見た、祈りの形をした子供の冷たい手。
そして、あの圧倒的な不利な法廷で、「なかったことにはしません」と強大な大司教を真っ直ぐに見据えていた、リリアナの無防備な背中。
彼女のあの純粋な芯の強さは、時にあまりにも危うい。
だからこそ自分が、彼女の祈りを完璧な証拠という鎧で守らなければならなかったのに。
カイの胸の奥で、過去の傷跡からどす黒い自責の念と、教会への静かで冷たい怒りが炎のように燃え上がった。
「すぐに馬を用意しろ」
カイは立ち上がり、漆黒の外套を乱暴に羽織った。
「カ、カイ様? まさか、強行突破を……!? 大聖堂へ武力で踏み込めば、それこそ反逆罪として完全に潰されてしまいます!」
部下の制止を、カイは冷徹な視線で一蹴した。
「私がそのような愚かな真似をするはずがないだろう。向かうのは大聖堂ではない。王国監査院だ」
カイは、懐に隠し持っていた告発状の写しと、追加証拠の目録を取り出した。
先日の法廷で第一報はすでに走らせてある。だが、王国監査院長エルネスト・グレイを正式に動かすには、教会の救恤金横領に関する決定的な裏付けが必要だった。
「かつて私が敗れた時とは、もう盤面が違う。私には辺境伯の権限があり、そして何より、彼女が己の足で集め、見つけ出してくれた『祈りの不在』という確かな入り口がある」
カイの瞳に宿っていた激しい感情の渦は、やがて、極限まで研ぎ澄まされた氷のような決意へと変わっていった。
「彼女の祈りを、ただの幻だと言って笑う者がいるのなら。私は、王国法のすべてを動かして、その者の帳簿を力尽くでこじ開けるまでだ」
もう、二度と失わせはしない。
あの時、祈るしかなかった子供を救えなかった無力な自分は、もうここにはいないのだから。
「急ぐぞ。彼女が泣いている間に、泣かずに済む仕組みを完成させる」
カイは、二度と同じ過ちはしないと固く決意し、反撃の狼煙を上げるべく夜の王都へと駆け出していった。




