第21話 祈りのない白い部屋
真っ白な大理石の床。真っ白な漆喰の壁。そして、汚れ一つない純白の祭壇。
外界の音は分厚い扉によって完全に遮断され、ただ重く甘い香の匂いだけが、淀みなく漂っている。
この完璧に整えられた無菌室のような空間には、私の耳に届くはずの『祈り』が、何一つ存在していなかった。
王都・中央大聖堂での審問。
すべての証拠を握り潰され、圧倒的な権力によって異端の烙印を押されようとしている私は、判決が確定するまでの間、大聖堂の最深部にあるこの特別祈祷室に幽閉されることになった。
カイ様とは、あの法廷で最後に視線を交わして以来、完全に引き離されてしまった。
彼は今、辺境伯家の補佐官という立場すら危うくされかねない敵地のど真ん中で、たった一人で戦っているはずだ。
「ここは、大司教様が最も神聖で美しいと称賛される部屋です。異端の判決が下るまで、己の罪を悔い改めなさい」
私をここに押し込んだ神官は、そう冷たく言い捨てて鍵をかけた。
確かに、目に入るものすべてが白で統一されたこの部屋は、息を呑むほどに美しいのかもしれない。
天井のステンドグラスからは計算されたように柔らかな光が差し込み、埃一つ落ちていない祭壇には高価な燭台が飾られている。
私は与えられた椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じて、精神を澄ませてみた。
……やはり、何も聞こえない。
辺境の孤児院で聞いた、寒さに震える子供の悲鳴。
治癒院の冷たい床で聞いた、母親の絶望の叫び。
偽聖女として飾られていた少女の、怯える心。
これまで私は、どんなに分厚い壁の向こうからでも、痛みに耐える人々の祈りの残響を感じ取ってきた。
しかし、この王都の象徴とも言える大聖堂の中心、最も神聖であるはずのこの部屋からは、そんな温度のある声がただの一欠片も響いてこないのだ。
なぜか。
理由は簡単だった。
ここは、美しい場所だから祈りが聞こえないのではない。
痛みを持つ人間が、最初から一歩も立ち入ることを許されていない場所だからだ。
薄汚れた服を着た平民や、病に苦しむ弱者たちは、この白亜の部屋に近づくことすらできない。
苦しむ民を視界から排除し、見栄えのいい権威と秩序だけを飾るために作られた、巨大で空っぽの箱。
それが、大司教様が『美しい』と信じて疑わない、この祈祷室の正体だった。
(こんな場所に、神様がいるはずがない)
私は静かに目を開け、真っ白な壁を見つめた。
こんな祈りのない部屋に閉じ込められて、私が絶望して心を折るとでも思っているのだろうか。
彼らは私を無力化し、すべてを終わらせたつもりでいる。
だが、私の心は決して折れてはいなかった。
なぜなら、私にはカイ様がいるからだ。
『あなたがそこへ行くと言うのなら、逃げ道は私が作ります』
あの時、彼が不器用な言葉で誓ってくれた約束が、今も私の胸の奥で確かに熱を帯びている。
彼はあの不利な法廷でも、決して絶望などしていなかった。
私がここで耐え、決して「なかったこと」にしないと足を踏ん張っている限り、彼は必ず、この完璧に塞がれた盤面をひっくり返すための『出口』を作ってくれる。
遠く離れた場所にいても、その確かな信頼だけが、私をこの冷たい部屋で立たせていた。
ガチャリ、と重い金属の音が響き、分厚い扉が開いた。
入ってきたのは、食事を運んできた下働きの少女だった。
年は私と同じか、少し下だろうか。粗末な麻の服を着た彼女は、酷く怯えたように肩を縮め、ガタガタと震える手で銀の盆を運んでくる。
扉の外には、私を監視する屈強な神官が、彼女をゴミでも見るような冷酷な目で睨みつけていた。
「さ、差し入れのお食事です……」
少女が小さなテーブルに盆を置こうとした、その時だった。
過度の緊張のせいか、彼女の足が真っ白なカーペットの縁にわずかに引っかかった。
ガチャン!
甲高い金属音を立てて、盆の上にあった銀の水差しが床に落ちた。
氷のように冷たい水が、汚れ一つない純白の大理石の床に無惨にぶちまけられる。
「ひっ……!」
少女は短い悲鳴を上げ、顔を真っ青にしてその場にへたり込んだ。
「何をしている、この愚図が!」
扉の外から、監視の神官が怒鳴り込んでくる。
「大司教様の最も神聖な祈祷室を汚すとは! お前のような下賎な者は、即刻地下牢で鞭打ちの刑だ!」
神官が腰の鞭に手をかけ、床で震える少女の腕を乱暴に掴み上げようとした。
その瞬間。
私は迷わず椅子から立ち上がり、二人の間にスッと割って入って、少女を自分の背中で庇った。
「やめてください!」
「退きなさい、異端の娘! そいつは教会の神聖な財産を傷つけたのだ! 厳罰に処さねばならない!」
「違います」
私は神官の目を真っ直ぐに見据えて、はっきりと嘘をついた。
「私が、テーブルから急に立ち上がろうとして、彼女にぶつかってしまったのです」
「なんだと……?」
「私の不注意です。彼女を責めないでください。床は私が責任を持って拭き清めますから」
私は一歩も引かずに、神官の威圧的な視線を受け止めた。
異端として破門されようとしている身であっても、目の前で理不尽に踏みにじられようとしている痛みを、黙って見過ごすことなど絶対にできない。
神官は忌々しげに舌打ちをし、私を睨みつけた。
「……次はないぞ。早く片付けて出てこい!」
神官が乱暴に扉を閉めて外へ戻ると、部屋には再び重い静寂が降りた。
「あ、あの……」
少女は床に座り込んだまま、信じられないものを見るような目で私を見上げていた。
「聖女様。どうして、私なんかを……。ご自分が大変な時に、私を庇ったりしては、お立場がもっと悪くなってしまいます」
「あなたが鞭で打たれなくて、本当によかった」
私がしゃがみ込み、彼女の零した水を備え付けの布で拭き始めると、少女の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「私、ずっと見ていました。王都の治癒院で、あなたが貧しい子供を助けて、追放された時のことも……。どうして、あなたみたいに優しい方が、異端だなんて言われなきゃいけないんですか」
少女は袖で涙を拭いながら、私と一緒に床の水を拭き取り始めた。
彼女の手から、悲しみと、そして微かな希望の祈りの残響が伝わってくる。
この祈りのない白い部屋で、初めて触れた、人間の確かな温度だった。
「聖女様。私……話したくても、ずっと怖くて話せなかったことがあります」
少女はふと顔を上げ、扉の外にいる神官に聞こえないよう、極端に声を潜めて囁いた。
「あの司祭様たちが、見栄えのいい嘘の帳簿を作っていたこと。そして……見せられない『本当の台帳』を、どこに隠しているか」
私はハッとして、布を持つ手を止めた。
彼女の目は、恐怖に震えながらも、真実を告げようとする確かな勇気に満ちていた。
「本当の台帳の場所を、知っているの?」
「はい。いつも私が掃除をしている、あの奥の部屋に……」
彼女が紡いだその言葉は、カイ様が探していた絶対的な反撃の鍵だ。
この白い祈祷室で、ただ一人耐え忍んでいた私の足元に、小さな、けれど決して消えることのない希望の芽が、確かに息吹いていた。
その少女は、ある台帳の在処を知っていた。




