第20話 祈りだけでは証拠にならない
「あなたが聞いたという祈りは、誰が証明するのですか?」
大司教様の声は、どこまでも慈悲深く、穏やかだった。
だからこそ、私を逃げ場のない深い絶望の底へと突き落とした。
冷たい大理石に覆われた王都の中央大聖堂・審問の間。
買収された証人たちと、巧妙に差し替えられた帳簿によって、カイ様が用意してくれた決定的な証拠の数々は次々と無効化されていった。
絶望的な劣勢の中、それまで黙って裁判長の宣告を聞いていたマティアス大司教様が、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
純白の法衣に身を包んだ彼の姿は、後光が差しているように神々しい。
広間を埋め尽くす高位神官や貴族たちは、彼が立ち上がっただけで水を打ったように静まり返り、深い敬意を持って頭を垂れた。
「リリアナ・セレスト。あなたは辺境で、凍える孤児たちや、治癒を後回しにされた母親の『祈りの残響』を聞いたと言う。そして監査官殿は、あなたのその曖昧な言葉に合わせて、数字を並べ立ててみせた」
大司教様は、決して声を荒げたりはしない。
まるで、道を間違えた幼い子供を優しく諭すような、温かく滑らかな口調だった。
「ですが、先ほどの証言の通り、帳簿には一切の不正はなく、証人たちはあなたの脅迫によって嘘をつかされていたことが明らかになりました。教会の秩序を守るための正当な献金を、私腹を肥やすための悪事だと曲解するとは、悲しいことです」
「それは……っ! 彼らが嘘をついているからです! 私は本当に、彼らの痛みの声を聞きました!」
私が反論の声を上げると、傍聴席からクスクスと冷酷な嘲笑が漏れた。
大司教様は、悲痛な顔でゆっくりと首を横に振る。
「リリアナ。信仰の秩序とは、美しい形を保つことで初めて民に安心を与えるものです。真実をねじ曲げ、目に見えない曖昧なものを根拠に教会の権威を傷つけることは、女神への冒涜ではないでしょうか」
彼は一歩前へ進み出ると、私を上から見下ろすようにして、決定的な問いを投げかけた。
「あなたが聞いたという祈りは、あなた以外の誰が、どうやって証明するのですか?」
その言葉に、私は息を呑み、奥歯を強く噛み締めた。
祈りの残響は、私の掌の奥深くに触れる、私だけの感覚だ。
どんなにその痛みが本物であっても、それを他人の目に映る客観的な『証拠』として提示することはできない。
カイ様がその祈りを起点にして集めてくれた帳簿や物証は、今、彼らの圧倒的な権力によってすべて握り潰されてしまった。
証明する手立ては、もうどこにもない。
大司教様の穏やかな論理の網に絡め取られ、私は完全に言葉を失ってしまった。
「何も答えられないのですね。可哀想に。辺境の寒さが、あなたの心を惑わせてしまったのでしょう」
大司教様が、哀れむように目を伏せる。
「あなたが聞いたという祈りは、ただの幻です。あなたが自身の無能さを隠すために作り上げた、悲しい嘘にすぎない」
幻。嘘。
その言葉が、鋭い棘のように私の胸に突き刺さる。
周囲の嘲笑が次第に大きくなり、私を『頭のおかしくなった異端の娘』として完全に切り捨てようとする空気が広間を支配していく。
私は、冷たい床に視線を落とした。
私の聞いた祈りは、幻なのだろうか。
――ちがう。
私の掌には、まだはっきりと残っている。
あの薄暗い孤児院で、薄い毛布にくるまりながらも私を頼ってくれた子供の手の冷たさ。
高熱にうなされる我が子を抱きしめ、声を殺して震えていた母親の涙の温度。
大人たちの期待に怯え、震える指先を必死に隠そうとしていた少女の恐怖。
彼らの痛みは、絶対に幻なんかじゃない。
私がここで大司教様の言葉に屈してしまえば、彼らが流した涙も、奪われたものも、本当にこの世界から『なかったこと』にされてしまう。
それだけは、絶対に嫌だ。
私は、ギュッと両手を握りしめ、顔を上げた。
「……証明は、できません」
私の静かな声に、広間の嘲笑がピタリと止んだ。
大司教様が「ならば」と口を開きかけたのを、私は強い視線で遮る。
「客観的な証拠は、今はもうありません。証明は、私一人ではできません」
私は、大司教様の深淵のような瞳を真っ直ぐに見据え、一言一言、噛み締めるように言った。
「でも、なかったことにはしません」
静寂が、審問の間に重くのしかかった。
大司教様の顔から、一瞬だけ、あの完璧な慈悲の微笑みが消え去った。
「私が聞いた祈りは、確かにそこにありました。あなたがどれほど権力で隠そうと、書類を書き換えようと、彼らの流した涙と痛みを、私は絶対に幻だとは認めません」
私は崩れない。
ここで私が折れれば、あの辺境で私を信じてくれた人々の心まで裏切ることになるからだ。
隣に立つカイ様が、私を横目で見下ろした。
彼の灰色の瞳には、私の無謀とも言える意地に対する呆れと、そして、かすかな信頼の光が宿っていた。
『証明は一人ではできない』。
その言葉の裏にある私の願いを、彼は確かに受け取ってくれていた。
「……これ以上の問答は無意味ですね。異端の妄言として、判決を下しなさい」
大司教様が冷たく言い捨て、玉座へと戻っていく。
圧倒的な不利。もはや表立って反撃する術はない。
だが、私は決して絶望していなかった。
その頃。
審問の間から離れた、中央大聖堂の来賓用控室。
カイ・ヴァレンティスは、無人の部屋で一人、冷たい石の机に羊皮紙を広げていた。
審理の途中で『証拠不十分』として一部の書類を封じられ、休廷の間に別室へと退がった彼は、焦ることも怒ることもなく、ただ極寒の理性で次の盤面を組み立てていた。
「祈りは証拠にならない。そして、教会法の下では、私が集めた紙の証拠すらも握り潰される、か」
彼は、差し替えられたという偽の帳簿の写しを冷ややかに見下ろした。
相手は教会の最高権力者だ。最初から、表の審問で正面からぶつかって勝てる相手ではないことは計算に入っている。
だからこそ、彼がリリアナに「逃げ道と、戻る道を作る」と約束したその手段は、教会という閉鎖された領域の『外』に用意されていた。
あの審問の間で、絶望的な状況に追い込まれながらも、決して目を逸らさずに立っている少女の顔が脳裏に浮かぶ。
『なかったことにはしません』と、強大な権威に噛み付いた彼女の無防備な背中。
「……あなたがそうやって時間を稼いでいる間に、私は私の仕事を済ませるだけです」
カイは羽ペンをインク壺に浸した。
教会の金だけならば、治外法権として彼らの好きに書き換えられるかもしれない。
だが、あの演出費や孤児院の予算には、確かに『王国救恤金』が混ざっているのだ。
王国法を犯している以上、教会の絶対的な権威を外部から物理的に打ち破ることができる存在が、ただ一人だけいる。
かつて王都でカイの上司であり、彼に冷徹な監査のイロハを叩き込んだ、王国最大の法と執行の番人。
カイは、その絶対的な権力を持つ男に宛てて、簡潔にして致命的な告発の文面を書き連ねた。
教会の腐敗を完全に包囲し、大司教の逃げ道を物理的に塞ぐための、裏の最強のカード。
羽ペンが紙を擦る音だけが、静かな部屋に響き続ける。
書き終えた手紙を折りたたみ、彼は血のような教会の蝋印とは違う、レイゼル辺境伯家の厳格な紋章で封をした。
「頼みましたよ」
カイは、控室の裏口に密かに待機させていた信頼できる部下へと、その手紙を託した。
表の法廷でリリアナが耐えている間に、彼は水面下で王国を巻き込む巨大な反撃の狼煙を上げていたのだ。
カイは、ある男の名を書いた手紙を出した。




