第19話 最初から勝てない審問
王都・中央大聖堂の奥深くに設けられた審問の間に、私の聞いた祈りの声など届くはずもなかった。
そこは、冷たい大理石の床と、見上げるほど高い天井、そして無数の権威ある神官たちによって構成された、初めから私を潰すためだけに仕組まれた完璧な盤面だったからだ。
血のような赤色の蝋印が押された異端審問の召喚状を受け取り、王都へ戻ってきた私とカイ様を待ち受けていたのは、想定を遥かに超える絶望的な状況だった。
「これより、下級聖女リリアナ・セレストの異端審問を開始する」
大司教の代理として裁判長席に座る高位神官が、木槌を冷たく鳴らした。
重厚な長机の向こうには、私たちを断罪するために集められた無数の聖職者や貴族たちが、冷笑を浮かべて居並んでいる。
「被告人リリアナ・セレストは、教会権威を毀損し、次期聖女候補への妨害工作を行い、さらには『祈りの残響』などという虚偽の力を流布した異端の罪に問われている。これに対し、レイゼル辺境伯家・監査官カイ・ヴァレンティスは異議を申し立てているが……」
裁判長は手元の書類を軽蔑するように見下ろし、鼻を鳴らした。
カイ様は私の隣で、いつものように感情を交えない淡々とした声で反証を始める。
彼が提出したのは、セラフィーナ様の演出に流用された孤児院予算の帳簿と、ヴィクトル司教が発行していた優先券の控え、そして被害に遭った辺境の民たちの証言録だった。
しかし。
「その帳簿の数字は、すでに『再計算』され、適正な予算執行であったことが証明されている。また、優先券の控えとやらは、辺境の役人が捏造した偽造品であるという証言も得ている」
裁判長が合図をすると、傍聴席にいた一人の商人が立ち上がった。
それは、私たちが辺境で証言を約束させていたはずの、優先券の取引に関わっていた薬草商だった。
彼はカイ様と目を合わせることもなく、「脅されて偽の証言をさせられた」と平然と嘘をついた。
明らかに、中央教会の莫大な資金で事前に買収されているのだ。
「さらに、次期聖女候補セラフィーナ・ローゼの証言書だが……これも、監査官による脅迫によって書かされた無効な文書であると判断する」
裁判長は、カイ様が用意した決定的な証拠の数々を、次々と握り潰していく。
そして、彼らが用意した『差し替えられた完璧な帳簿』と『買収された証人たち』が、逆に私たちを追い詰めるための刃として振り下ろされていく。
私は、冷たい大理石の床に立ち尽くしながら、胸の奥がひどく冷え切っていくのを感じていた。
これまでの辺境での戦いは、カイ様が数字と法を盾にして戦ってくれたからこそ勝つことができた。
だがここは、彼らが法そのものを書き換え、真実すらも金と権力で捏造できる、敵の絶対的な領域なのだ。
その絶望的な状況の中で、私はある奇妙な違和感に気づいた。
これほど多くの人々が集まり、教会と女神の名において重大な審理が行われているこの神聖な場所。
にもかかわらず、ここには『祈り』が一切存在しないのだ。
私がこれまで聞いてきた祈りは、いつも痛みに満ちていた。
寒さに震える孤児の悲鳴。熱にうなされる子供を抱きしめる母親の絶望。偽りの自分に怯える少女の恐怖。
それらの祈りの残響は、どんなに微弱でも、確かに私の掌の奥深くに触れる温度を持っていた。
しかし、この豪奢な審問の間からは、そんな温度がひとかけらも感じられない。
彼らは「教会の権威」や「秩序」を口にするが、そこに迷える民への慈悲や、誰かを救いたいという願いは微塵も含まれていない。
あるのはただ、自分たちの地位を守り、目障りな不純物を排除しようとする冷たく乾いた打算だけだ。
(ここは……痛む人が、入れない場所なんだ)
私は悟った。
この審問の間は、真実を明らかにするための場所ではない。
痛みを持つ弱者を最初から排除し、彼らの作り上げた完璧で無菌な『秩序』を守るためだけに作られた、祈りのない真っ白な部屋の入り口にすぎないのだと。
「以上により、被告側から提出された証拠はすべて無効。よって、被告人リリアナ・セレストの異端の罪を確定し、破門の手続きに移行する」
裁判長が、冷酷な宣告を下そうと木槌を振り上げた。
「……待っていただこう」
その時、私の隣に立つカイ様が、低く凄みのある声でそれを遮った。
彼の提出した証拠はすべて封じられ、彼が頼みとしていた法と制度の力は、この盤面では完全に無力化されている。
傍目には、もはや打つ手のない完全な敗北だ。
それでも、カイ様の灰色の瞳は微塵も折れてはいなかった。
彼は、決して感情的になって怒鳴ることはない。ただ、氷のように冷たく、静かな怒りを宿した視線で、裁判長席を見据えていた。
「これ以上の審理の続行は無意味だと判断します。ですが、本件に関するすべての記録は、王国監査院の規定に基づき、私が責任を持って持ち帰らせていただく」
それは、ただの負け惜しみではない。
彼が水面下で、まだ何かを準備しているという明らかな宣言だった。
カイ様が私の方を向き、ほんの一瞬だけ、視線を交わした。
その無言の視線は、「逃げ道も戻る道も、私が必ず作る」という、あの辺境で交わした約束の温度を保っていた。
私もまた、彼を見つめ返し、静かに頷いた。
証拠が握り潰されようと、彼らがどれほど嘘を塗り固めようと。
私が見つけてきた人々の痛みと祈りは、絶対に『なかったこと』にはさせない。
私たちは、居並ぶ敵の冷笑を浴びながら、決して目を伏せることなく、その場に並び立っていた。
最初から勝てない盤面だった。
けれど、私たちの戦いは、まだ終わってはいない。




