第14話 今の彼女は証人ではありません
冷たい石の壁に囲まれた執務室に、容赦のない事実を突きつける氷のような声が響いていた。
机の上に叩きつけられた証拠の束を前に、華やかな次期聖女は完全に血の気を失って震えている。
カイ様は、怯える彼女の心など一切無視して、急いで完璧な『証人』に仕立て上げようとしていた。
「これが、あなたが広場で披露した奇跡の正体ですね」
レイゼル辺境伯家の執務室。
いつもの取り巻きの神官たちから引き離され、一人で喚問されたセラフィーナ・ローゼは、豪華な長椅子の上で小さく縮こまっていた。
真っ白なドレスのような聖女服は、薄暗く無機質なこの部屋ではひどく浮いて見えた。
彼女の目の前には、カイ様が揃えた『反射石』や『発光性薬草の粉末』の購入記録、そして彼女の儀式にかかった莫大な演出費の明細が広げられている。
言い逃れのしようがない、奇跡の値札だった。
「……これは、何かの間違いよ。私は知らないわ。こんな紙切れ……」
「間違いではありません。すべて裏付けの取れた確かな数字と署名です」
セラフィーナの震える反論を、カイ様は淡々とした声で冷酷に切り捨てた。
「あなたが放った光は、女神の力ではない。孤児院の修繕費や救恤金を流用して作られた大掛かりな舞台演出だ。そして、あなたもその詐欺行為の片棒を担いでいる」
「違うわ! 私はただ、教えられた通りに美しく祈るようにと言われただけで……!」
虚勢を張る余裕すら失い、セラフィーナの目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
しかし、カイ様は彼女の涙に一切の同情を示さなかった。
彼にとって、ここは一気に敵の牙城を崩す絶好の好機なのだ。
「あなたがすべてを証言し、中央の演出司祭たちや大司教の指示であったと認めれば、あなた自身の罪には情状酌量の余地が生まれる」
カイ様は、インクを含ませた羽ペンと白紙の供述書を、彼女の震える手元へと無慈悲に押し付けた。
「今すぐこの供述書に署名しなさい。あなたが証言すれば、中央の腐敗を暴く決定的な武器になる。早く」
それは、監査官としては極めて正しい、そして有能な判断だった。
敵が動揺している隙を突き、逃げ道を塞ぎ、事実を確定させる。
彼がこれまでにいくつもの不正を暴き、証拠を固めてきた手法なのだろう。
だが、その『正しさ』は、今の彼女にとってはあまりにも急ぎすぎていて、暴力的だった。
「こわい……っ。そんなことしたら、私は、本当に捨てられてしまう……」
羽ペンを握らされたセラフィーナの手が、カタカタと音を立てて震えている。
彼女から響いてくる悲鳴のような祈りの残響が、私の胸を酷く締め付けた。
本物になれない自分への絶望。
大人たちの期待に応えられなければ、ゴミのように捨てられるという恐怖。
その痛みに苛まれている彼女は、とてもじゃないが、巨大な権力と戦うための『証人』になどなれる状態ではない。
「捨てられるかどうかの話をしているのではありません。不正の事実を確定させる、法的な手続きの話をしているのです。早く署名を」
カイ様は、相手の恐怖をまったく汲み取ろうとせず、さらに追い打ちをかけるように急かした。
その時。
私はたまらず、カイ様とセラフィーナの間にスッと割って入っていた。
「待ってください、カイ様」
私はセラフィーナの前に立ち塞がり、彼女の震える手からそっと羽ペンを取り上げた。
「退きなさい、リリアナ。彼女の証言があれば、中央教会の悪事を完全に裏付けることができる。ここで確実に押さえておくべきだ」
カイ様は、なぜ私が邪魔をするのか理解できないというように、鋭い灰色の瞳をわずかに細めた。
彼は、決して冷酷なだけの悪人ではない。弱者を守るために、誰よりも確実な『仕組み』を作ろうとしてくれている。
でも、彼は正しいことを急ぐあまり、傷ついた人間の心を待つことができないのだ。
だから私は、彼の冷たい瞳を真っ直ぐに見据えて、はっきりと告げた。
「カイ様。今の彼女は、証人ではありません」
私の言葉に、カイ様は微かに眉を動かした。
「彼女は、大人たちに利用されて、ただ怯えているだけの……まだ、怖がっている女の子です」
静寂が、執務室にすとんと落ちた。
私は決して、彼を責めるような説教をしたわけではない。
彼には聞こえない『怯える心』がそこにあることを、ただ純粋に伝えたかっただけだ。
カイ様はハッと息を呑み、目を見開いたまま固まっていた。
聞こえるのは、背後でうずくまるセラフィーナの微かなすすり泣きと、暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけ。
カイ様の視線が、セラフィーナの震える肩と、彼女を庇うように立つ私へと注がれる。
彼の灰色の瞳の中で、常に絶対的だった理性の光が少しだけ揺らぎ、やがて何かを自覚したように、静かに伏せられた。
証拠を集め、法を盾にして敵を追い詰める有能さ。
それは、私など足元にも及ばない彼の強さだ。
けれど、怯える相手の心を無視して急ぎすぎれば、証言者は壊れ、本当の真実には辿り着けない。
それが、人の心を待てない彼の、唯一にして最大の弱点だったのだ。
彼は、自分に決定的に欠けているものを理解したのだろう。
証拠を作る力はあるが、傷ついた心を拾い上げ、待つ力がないこと。
そして私には、心に寄り添うことはできても、それを裁く仕組みを作る力がない。
だからこそ、私たちは互いに必要なのだ。
祈りだけでも、証拠だけでも足りない。
一方が欠ければ、本当の意味で誰も救うことはできないのだから。
私たちは沈黙の中で視線を交わし合った。
カイ様が私をただ守り、導くだけの庇護者ではなく、互いの欠落を埋め合う『対等な存在』として、初めてバディの形が完成した瞬間だった。
カイ様は、小さく、けれど深く息を吐き出した。
そして、机の上にあった白紙の供述書を、自分の手元へと静かに引き下げる。
「……わかりました」
カイ様は、それ以上、彼女を証人に仕立て上げようとする追及の言葉を止めた。




