虚海の風
第42話 虚海の風
ノエールの中枢。そのさらに奥。
光のない空間に、それは浮かんでいた。
メビウスの輪。
途切れない輪。内と外のない構造。
「……ここか」
カールは、静かに歩み寄る。
その時。
「遅いな」
声。
振り返る。
黒龍。
人の姿。だが、その“視線”だけが異質だった。
「……久しぶりだな」
「お前が呼んだのか」
「違う」
一拍。
「お前が来た」
沈黙。
その背後。
セントラルコンピューター。
脈打つ光。
カールが一歩踏み出す。
その瞬間。
世界が反転する。
足元が消える。
光が裏返る。
そして——
“もう一人のカール”
「遅かったな」
同じ声。
だが、違う。
冷たい。
深い。
底がない。
「お前は」
「お前だ」
影が笑う。
「王になった気分はどうだ?」
沈黙。
「守る? 選ぶ?」
一歩、近づく。
「そんなものは幻想だ」
空間が歪む。
「支配しろ」
「効率で動かせ」
「人は、管理されるためにある」
カールは、目を逸らさない。
覗き込む。
その“自分”を。
「……でかいな」
圧。
影のカールは巨大だった。
存在そのものが、押し潰してくる。
その奥。
虚無。
「……これが、俺か」
カールは、黙る。
影は笑う。
「守る? 選ぶ?」
一歩、近づく。
「そんなもの、幻想だ」
空間が揺れる。
「支配しろ」
低く。
「効率で動かせ」
さらに近づく。
「人は、管理されるためにある」
対峙した自分。
目を覗き込む。
なんだ? 奴がこんなに、大きかったか?
空洞は虚無。
自分を見つめるカール。
これは俺。
俺自身。
自分の心の甘さを感じる。
幼少期を思い出す。
黒龍に連れて行かれた。
あの時、
支配、管理、分配で、
全てが上手くいったと思っていた。
彼女のために、
全てを壊した。
しかし、彼女は死んだ。
正義も自分のエゴでなかったのか?
生まれて最初に愛した、
女の子は、死を選んだ。
自分のせいだ。
過去の記憶を思い出す。
ソフィアとの甘い生活を
考えていた自分。
子供の頃、命を守れなかった、
過去。
やはり、エゴだ。
初めての撃鉄。
記憶が開く。
荒れ野。
黒龍。
ビスケット。
銃。
分配。
「……正しかったのか?」
撃鉄。
引く。
撃つ。
相手は——
飢えた大人。
「……逆なら」
沈黙。
「俺が撃たれてた」
仲間を守った。
だが。
「……逃げたのか?」
ソフィア。
笑顔。
未来。
喉が詰まる。
「……なぜだ」
小さく。
震える声。
「なぜ俺は」
影が、答える。
「簡単だ」
一歩。
「お前は、“愛していない”からだ」
静寂。
「お前は守りたいだけだ」
「失いたくないだけだ」
「だから縛る」
仲間を守った。
友情に逃げた。
また、ソフィアに逃げるのか?
深い闇に手を伸ばす。
落ちていく、自分。
影は言う。
「カール、本当のお前はどこだ?」
心が痛む。
恐怖が体の芯に来る。
生まれて初めての恐怖。
なぜに、
ソフィアの自由を
愛せない?
カールの呼吸が、乱れる。
バングルが、震える。
ソフィアの気配。
だが。
それすら、ノイズになる。
カールの瞳が揺れる。
だが。
言葉が出ない。
「人は……」
止まる。
思考が加速する。
速すぎる。
すべて理解できる。
だが——
選べない。
影が、囁く。
「壊れろ」
その瞬間。
世界が崩れる。
ソフィア先王黒龍
全部が混ざる
「……っ」
膝が崩れる。
恐怖。
初めての感覚。
逃げ場がない。
「……終わりか」
黒龍の声。
「いや」
一拍。
「ここからだ」
第43話 フォースエセラー 虚海の風
落ちる。
落ちる。
落ちる。
気づけば。
白。
風。
潮の匂い。
「……ソフィア?」
記憶が、消えていく。
フォースエセラー 虚海の風
塔の奥へと進むにつれ、空気が変わった。磨き込まれたモルタルの壁は、
青黒い光を帯び、旧式の真鍮金具のついた縦長の窓から、
乱反射する光が階段に降り注ぐ。
カールは、一歩一歩を慎重に進めながらも、
胸の奥にざわめきを感じていた。
──風だ。
吹き抜けるはずのない塔の内部で、
ふいに潮の匂いを含んだ風が頬を撫でる。その風はどこか懐かしく、
しかし同時に、意識の奥底をかき乱す。
虚無と、虚海から来る風は、
僕を包み、果てしなく南方へと僕の心を連れて行く──。
「……ソフィア?」
声が漏れた瞬間、世界がざわめいた。
塔の壁がゆっくりと解け、
足元が霞み、白い空間が広がる。
気づけば、階段も梁もステンドグラスも消え、
そこには音だけが存在する。遠くで波の音がする。だが、海はどこにもない。
「誰だったかな……」
ソフィアの名を呼ぼうとするが、
なぜか声が掠れ、記憶が遠ざかる。
代わりに浮かび上がるのは、荒地の一軒家、
ビスケットを分け合う子供たち、
銃声の鳴り響く夕暮れ──断片的な過去の映像。
その全てが、風にさらわれるように薄れていく。
──忘れろ。 ここに来る前のことは、すべて。
頭の奥に直接響く声。カールは思わず頭を押さえた。
「いや……俺は……!」
意識が崩れかけた瞬間、
虚海の彼方に、ふわりと揺れる人影が見えた。光の粒子をまとい、風に髪をなびかせるシルエット。
ソフィアだ。
──カール、こっちよ……。
微かな声が届く。
「ソフィア!」
カールは足を踏み出した。
だが足元は空洞に変わり、身体が沈む。
落ちる──と思った瞬間、
背後から冷たい電子音が鳴り響いた。
ピポパ ピピピピタイム ロス ヘルプ ミー パパパパ
塔の上空に、メビウスの輪のような光の道が現れる。その中心に、逆さまになったソフィアの姿が通り過ぎる。
「……夢、なのか?」
いや、違う。これは──セントラルコンピューターが見せる電子寓話だ。




