第三十一話 拾った命
「さっきの地竜は攫われた子供を追って奴らの巣に押しかけたんだよ」
ヴィルフリートの返答を聞いて、最後に上がった咆哮が恐竜の慟哭のように思えて胸が少し苦しくなった。
あのボスを仕留めた広間で食われていたのは羽竜族ではなく恐竜、ここではランドドラゴンと呼ばれているそうだが、あれの幼生だったのだ。
あの恐竜の気持ちが痛いほど良く分かる。あの時、俺たちを必死で追い掛けていたのは自分が食うためではなく、子供を養うためだったに違いない。
俺とて望んだわけではないが二児の母だ。
「ん、こんなもんかな。ちょっと郷と連絡をつけてくる」
そう告げると彼は背を向けて小屋の外へとさっさと歩いていく。
目の前には湯気がほんのり立ち昇る桶とやや年季の入ったタオルが幾つか。これで身体を拭き清めろってことだろう、ありがたい。
大樹の上でしばらく休憩を取った後、負ぶわれて辿り着いたのは猟師小屋だった。
簡素だけど丈夫そうな木扉を開いて立ち入った時は誰も居らず、暖炉に火を入れて温まるまでは冷え切った身体の震えが止まらず参った参った。
さて、部屋も大分暖まってきたし、湯が冷めてしまう前に拭いてしまおう。
タオルを一枚手に取って湯に浸ける、と湯に触れた指先がジンと染みるような痛みを発した。久しぶりに感じるこの感覚はかれこれ一年と何ヶ月か振りだ……トカゲの手はごつくて丈夫過ぎた。
湯を含ませたタオルを絞ってまず顔を拭く。耳の後ろ、首周りと拭いて桶に浸すと湯に溶け出した汚れの凄まじさにどん引き。覚悟はしていたが、実際にそれを目にするといろんな意味でクるものがある……。
肩、腕、胸、腹と濡らしたタオルで拭っていると妙な気分になってくる。
俺のアイデンティティというか、自分を定義している意識そのものは日本にいた時と変わらない。つまり男のまんまって事だ。
だけどあり方は随分と変わってしまった気がする。今、こうして女になってしまった身体を見下ろし、触れているのに大して動揺していない自分に戸惑っている。
人間から大きく外れた身体になっていた事もあるから、それに比べれば大した事ではないと受け止めているということかもしれない。それどころか鎖骨や肋が浮き、関節がやけに大きく見える手足と全く肉感のない身体のみすぼらしさにガッカリと溜息すら零れる始末だ。
一回拭っただけで落ちるような汚れではないので、狭い範囲を拭っては濯いで絞ってを繰り返す。そうしていると桶の水が真っ黒になってしまった。これはひどい。まだ全身拭き終わっていないというのに、いつぞやの全自動トカゲ洗濯機を思い出させる汚水が出来上がってしまった。
水を替えなきゃならんが、非力すぎて桶を持ち上げられん。無理を押して万が一ひっくり返せば、数か月分の垢やら汗やら亜人の体液その他諸々が溶け込んだステキな液体がぶちまけられて大惨事になってしまう。あまりの悪臭によりこの山小屋が使用不能という事態になりかねん。
それから間もなく戻ってきたヴィルフリートに湯を何度か代えて貰い一通り全身を拭い終え、彼が引っ張り出してきたスウェットっぽい使いこまれた上下を借りて着込むとようやくひと心地つけた。
この上下は急に雨に降られた時、服を乾かす間に着られるようにと常備されているものだそうだ。サイズが大き過ぎてかなりぶかぶかなのは俺が小柄だからなのか、それとも彼らが大柄なのか。当然というか、下着はさすがに置いていないらしい。
「早く戻って討伐隊を出さないとな……」
暖炉に薪をくべながらポツリと呟いて、ヴィルフリートは何かを悔いるように揺らめく炎をじっと見詰めている。
もしかしたらあの中に彼の知り合いが居たのだろうか。もしそうなら、それを置いてきた彼の胸中に渦巻く罪悪感は察するに余りある……いや、それを促した俺が言えることではないな。
その様子をじっと見詰めていると、彼は火に掛けていた鍋からお湯を木のカップに注いでこちらへ渡してくれた。
湯気を上げる水面に息を吹き掛けて少し啜ると、喉を通る湯の温もりが血管を伝播するように染み渡っていくような気がして思わずほぅ、と息が一つ零れた。
「そういえばボスを仕留めた時、地竜を食ってた奴らがボスの周りに居た奴を襲ってたよな。アレは何だったんだ?」
同様にカップに注いだ湯を啜るヴィルフリートは、思い出したように尋ねてくる。
そういえば後で説明すると言ったっけか。そう難しい話ではないが、彼らにとっては納得が出来るかどうか分からない。
カップの湯をもう一口啜り、喉の調子を確かめる……腫れた感じがあるな。
「好きな人、いる?」
「…………はぁ?」
出した声はか細く掠れている。こっちも喉が痛くて喋り難いし、ヴィルフリートもよく聞こえなかったに違いない。意外に若くて精悍な顔を歪めて聞き返してきた。
「好きな人、いる?」
「いや、それとこれと何の関係があるんだ?」
なんだ、ちゃんと聞こえていたのか。
それにしても質問に質問で返すとは、ここは指摘してマヌケと小馬鹿にするべきだろうか。
「好きな人はエルフ? 亜人?」
「亜人なワケがないだろうッ!?」
額に血管を浮き立たせる勢いの反論にちょっぴりビックリしてしまった。
そういえば妖精族にとって亜人は不倶戴天の敵だっけ。引き合いに出す例えが悪すぎたけど、まあいいや。
「亜人も同じ。惹かれるのは、同種のメス」
「メスが居るのか!? それならなんであいつらは他種族の女を攫うんだ?」
「奴隷を増やすための道具。強い子とメスは同種のメスからしか生まれない」
ぽかん、と口を開いてヴィルフリートは固まった。
今まで亜人にメスが居るなどと聞いたことがなかったのでもしやとは思っていたが、やはり猟師の彼らも知らなかったようだ。
いや、もしかしたら知っている者はいるが知識が普及していない。若しくは受け入れられていないのかもしれない。
「でもメスはボスに独占されて手が届かない」
「まさかボスが死んだからメスを奪えるチャンスだとか、そういうことか?」
正確には箍が外れたのだが、大した差はないので首肯した。
美意識の違いと言うと少々語弊があるかもしれないが、奴らにとっては異種の美女よりも丈夫で強い子を産める同種のメスの方がよっぽど魅力的で、有り体に言えばいい女なのだ。
彼はどんな顔をしていいのか迷っているような、とても微妙な表情を浮かべている。
仲間と群れのボスが目の前で死んだというのに、下手人探しよりも本能を優先したのだ。逞しいといえば逞しいが、それよりも先に立つのは悍ましさだと俺は思う。
「討伐隊を出すなら今が一番」
「……あいつらはボスが遺したメスの取り合いをして、仲間割れをしているからな」
今までボスに奥へ押し込められていた息子たちが、次のボスの座を争って殺し合いを演じる。その手始めとして、メスを犯した奴隷たちの粛清が行われるだろう。当然、無抵抗でやられるようなことはあるまい。奴隷の奴らにしてみればボスの一族を殺して自分がのし上がれるかもしれない、本来ならば絶対に訪れる筈の無いチャンスなのだから。
その結果、亜人の数は大きく減るだろう。その数を回復しようがない今のタイミングこそ、あの大規模な巣を根絶やしに出来る絶対の好機なのだ。
「そうなると明日には郷に戻らなきゃな」
ヴィルフリートの言葉に頷き返し、カップのお湯を啜る。
携行食を分けて貰い、疲れていた事もあってその日はすぐに横になって眠ってしまった。
◇
村に青い髪の人たちがやってきた。
東の山の向こうに住んでいるという彼らは、私たちの村が大打撃を受けたと聞いてやって来たのだという。外との接触が殆ど無いのに、どうやって知ったのだろう。
彼らは地竜の番に立ち向かった父様たちが眠る墓地へ行き、英霊がどうのと何かを読み上げて祈りを捧げていた。
その晩、家に集まった彼らと母様をはじめ村人たちが言い争っていた。働き手が殆ど居なくなったこの村を再建するのは無理だとか、我々は今のままでも十分やっていけているとか、凄い剣幕で捲し立てている。
その場に居るのが怖くなって家から飛び出すと、何かが打ち合うような音が聞こえた。
何だろう、と音のする方へ歩いていくと、私と同じくらいの歳の子が木の棒を振り回していた。彼は私が見ているのに気付いた様子もなく、地面に突き立てた杭を何かに見立てたように木の棒で打ち続ける。短く刈った髪の先から飛ぶ汗を月明かりに冷たく光らせ、脇目もくれず一心不乱なその様子に何故か目が離せなくなってしまっていた。
彼が見ている私に気付いたのは疲れ果てて座り込み、手拭いで汗を拭いていたその時だった。
◇
目が覚めると窓から差し込んでいるらしい光が目に入り、眩しさで顔を顰めてしまう。その光から逃れるように顔を動かすと、見覚えの無い部屋に寝かされている事に気付いた。
木の板を横に重ね連ねた壁と、清潔そうな白いカーテン。
寝ているのは柔らかな敷布団とちょっと重さを感じる毛布と掛け布団。
布団を少し捲って見ると、身を包んでいるのは病院着のようなベージュ色の薄手のローブ。
はて、こんな所で寝てたっけ?
眠りに着く前の状況を思い出そうとしたが、寝起きというにはあまりにもボーっとしすぎた頭では回転するものも回転しない。
とりあえず起きるか。そう思い立って身体を起こそうとするが上手くいかない。
身体ってこんなに重かったっけ? むしろ痩せすぎてて軽くなってるはずなのに、全身が怠くて力が入らない。
それでも手を付いてどうにかこうにか身体を起こすと、今度は激しい眩暈に襲われあえなく布団へ倒れ込んでしまった。たったこれだけの動作をしただけで動悸が激しくなり、熱く荒い息が喉を焼く。
「おお? 気が付いたかね」
息を整えていると白髪混じりの髪を後ろへ撫で付けた壮年の男がこちらへゆっくりとした足取りで歩いてくる。
誰だろう、全く見覚えが無い。が、その手に持っている急須らしいものや前合わせのゆったりし上下は既視感と呼ぶにはあまりに馴染みすぎた物で、ただでさえ回らない頭を混乱に叩き落すには十分過ぎた。
そういえば俺が着ているこれも、ローブというより浴衣と呼んだ方がしっくりとくる……。
恐らく目を白黒させているであろう俺の戸惑った様子に気付いたらしく、男は「ほっほ」と暢気な声で笑った。その声は柔らかくも温かみを感じさせ、未だ混乱の最中にありながら不思議と落ち着きを感じるものだ。
「色々と確認せねばならんが、まずはこれを飲みなさい」
そう告げた男は俺の上半身を抱き起こすと、急須の飲み口を口元へ差し出してきた。
これくらいは飲める、と一瞬ムッとしてしまったが持ち上げようとした手を上げるのも億劫で断念。大人しく唇でそれを咥え、少しずつ注がれる温めの液体をコクコクと喉へ飲み込んだ。
この独特の匂いと甘辛さ……生姜湯だ。それも俺の知る粉を湯に溶かしたものよりも濃厚で美味しい、本当にここ異世界なのか? いつの間にか日本に帰ってきたんじゃ……って、そんなわけないか。おじさんの後ろから白い尻尾が生えてるし。
急須の中身を飲み干して一息吐くと、満足そうに頷いて「よう飲んだ」と頭を撫でてきた。何だこの子ども扱い。
それから濡らした手拭で汗をかいた身体を拭いてもらい、同じく汗を吸っている浴衣を着替えて再度布団に横になる。ベッドじゃなくて板張りに敷いた布団なんて、この世界に来てはじめて見た。木造らしいこの建物も何処か和風な感じがするし、異世界っていう気がしない。
「ここは……?」
「竜人郷だよ、お嬢さん。名前はレン・ルー・ムトーで間違いはないかね?」
呼ばれたその名に驚いて目が見開いたのを自覚した。
それは冒険者ギルドに登録している名前だ。一年前、まだ文字の読み書きが出来なかった俺に代わってテレーゼが書いてくれたのだが、やっぱりちゃんと確認しておけば良かったと激しく後悔した。
しかしお嬢さん、とは……いくら自分が女性であると自覚していてもそう呼ばれるのは些か抵抗というか、むず痒いものを感じてしまうな。
「どうして、名前を?」
「うむ、郷の猟師が冒険者ギルドの登録証を拾ってきたのだよ。もう三ヶ月も前の事だが」
なるほど。でもギルドの登録はトカゲの時のものなのに、どうして俺と結び付けられたのだろう……熱で回転が鈍い頭では考えても答えを導けそうにない。
「それでここに居る理由はだな、一週間ほど前にお前さんを担いだヴィルの奴が血相を変えて駆け込んで来ての、目を覚まさないから診てくれと頼まれたのだ」
そうなのか……よく目を覚ましたものだ。
長くは持たないと分かっていたし、それほど昏睡していたならそのまま死んでいてもおかしくない。これもあの地獄から連れ出してくれたヴィルフリートとこのおじさんのおかげだ。
「ありがとう、ございます」
「なぁに、礼ならヴィルの奴に言ってやるがいい」
ほっほ、と好々爺と呼ぶにはまだ早い髭面の相好を崩し、おじさんは空になった急須と木桶を持って立ち去っていく。
その背を見送り、マナ灯がぶら下がった天井へと視線を移して溜息を一つ吐いた。
あの日からどれだけ月日が過ぎたのか分からないけど、少なくとも三ヶ月は経っているのか。
色々あって、あり過ぎて、何もかもが夢か幻みたいだ。
トリーシャはどうしているだろう、無事……なわけがない。もしかしたら独力で逃げ出せている可能性もゼロではないが、あれだけ油断のない連中がそう簡単に逃がすとは到底思えない。
俺のせいだ……どうしたら償えるだろう。
一人では立つ事も出来ないし、身体は回復するかどうか。あんな不衛生と呼ぶのも上等な地獄で犯し尽くされたのだ、どんな病気を感染されているか分からない。
でも生き延びたのなら、そこに意味があるのだと考えたい。
一年前に死んだと思ったあの時から命を拾い続けたのは、何か理由があるのだと思いたい。
まだ物事を前向きに考えられる余裕はないけれど、せっかく拾った命なら有効に使わねば勿体無い。
ユカリに一目会いたい、名前も付けて上げられなかったあの子の事を弔ってあげたい。あの地獄から出てきた今、最低でもこの二つを成し遂げなければ死んでも死にきれない……。
そのまま眠りに着いてしまったようで、目が覚めると明るかったカーテンの向こうは暗くなっていた。
身体の熱は相変わらず、怠さも変わらない。
俺が目を覚ましたのに気付いたおじさんは盆に急須と土鍋を載せてやってきた。
その中身は麦飯を水で煮て粥にしたもの。オートミールとは違いどろどろした感じは少なく、立ち昇る湯気に混ざった匂いから擂った生姜を混ぜているらしい。木製の大振りな匙で食べさせて貰うと、塩味に加えてほんのり懐かしい香りが口の中から鼻を抜けていく……これは、まさか!
「しょうゆ……?」
「ほぉ、知っておったかね」
驚きのあまり漏れた呟きを聞いたおじさんは、意外そうだが嬉しそうに笑った。
そういえばサインツ夫人が竜人郷で大豆のソースを作っている、と言っていた覚えがある。ここで味わう事がなければそのまま忘れていた。
懐かしい味わいと香りに夢中になり、粥はあっという間になくなってしまった。麦とはいえ炊いた飯を食ったのも久しぶりだった。なんだか無性に泣きたくなってくる。
「いい食べっぷりだ。これなら早く良くなるだろうて」
「……あの……」
空になった土鍋を下げて満足そうに笑っているおじさんを呼び止めようとしたが、蚊の鳴くような声しか出せず言葉が届かない。
言葉が出し辛い。喉が痛くて声が出せないのとは違う、心がブレーキを掛けているような感じなのだ。
気付かないおじさんは急須を置いてすたすたと歩いていき、ぽつんと取り残されたような寂しさを覚える。しかしすぐに戻ってきた彼は俺の傍らに腰掛け、持ってきた紙の包みを開いて茶色の粉末を飲ませてきた。
――すっげー苦いッ!
苦いっていうか辛い! 辛いっていうか辛いッ!
思わず身体が跳ね上がりそうになるがそれはおじさんに難なく取り押さえられ、口に宛がわれた急須の飲み口からお湯を吸い出すような勢いで含み、ゆすいで飲み下す。
何だこの不意打ち、良薬口に苦しとかそんなことはどうだっていい。苦いなら苦いって先に一言欲しかった!
そんな胸に渦巻く感情を、目尻に涙が浮いた目でキッと睨んで訴える。しかしおじさんは誤魔化すような様子もなく「ほっほ」と笑って急須も片付けてしまった。おのれ……。
「ヴィルフリートは、何処?」
起こしていた上半身をゆっくりと倒して貰いながら、未だ姿を現さない男の事を尋ねてみた。
あの地獄から連れ出してくれた礼をせねばならないのだが、自ら動けないのでは来て貰うしかない。
「あ奴は猟師衆として亜人の討伐に赴いておるよ」
そう答えると、おじさんは何処か複雑そうな面持ちでこちらを見下ろし、俺の髪を撫でている。
「じきに帰ってくる。お前さんは身体を治す事を考えよ」
なんだろう、と尋ねようとしたところでおじさんはその場を立ち去り、戸を開けて外へと出て行った。
あんな顔をされると何かあったのかと心が逸ってしまう。でも確かめる術はこの手に無く、もやもやとした気持ちだけが胸の内で蟠って夜は更けていった。




