花を散らす雨(七)
(疲れた…………)
馬車は、オリヴィンの大通りを走っている。
窓の外からは、行き交う人々の声や、商人たちの威勢のいい呼び声が絶え間なく聞こえてくる。
けれど、そんな喧騒も、美しい街並みも、今のルナリーシアには、どうでもよかった。
(……これで、良かったんだよね。)
懐から、一通の手紙を取り出す。
何度も読み返した、母からの手紙だ。その末尾に添えられた追伸を、もう一度指でなぞった。
『叶うのなら、何をしても大丈夫。全てを白日の下に晒して。あなたには、オリヴィンの商人の血が流れているのだから。』
母らしくない文章だった。
穏やかで、争いを好まず、いつだって自分より他人を優先するシンシアが書いたものとは、どこか思えないほどに。
けれど————
『全てを白日の下に晒して。』
その一言だけで、十分だった。
母の心に落とされたギエフ侯爵の影が、十六年経った今なお、どれほど深く残っているのか。
ルナリーシアには、それだけで分かってしまった。
シンシアが弱音を吐くところを、ルナリーシアは見たことがない。
病で高熱を出した時でさえ、「大丈夫よ」と穏やかに笑うような人だった。
何かを欲しがることも、ほとんどない。
その美貌を見初めた裕福な男から、後妻にと望まれたこともあった。
けれどシンシアは、すべて断った。————ルナリーシアのために。
いつだって、母は娘を優先した。
それが「母親だから」の一言で当然のものになるわけではないことくらい、ルナリーシアにも分かっている
たった一人の家族。
普段は決して、自分の願いを口にしない母が、初めて、聞かせてくれた願いだった。
————ならば、その願いを叶えずに、なんとする。
ルナリーシアを身籠った時、シンシアは、今の自分と同じ十六歳だった。
自分が十六歳になった今だからこそ、分かる。
未婚の身で子を宿し、故郷を追われ、見知らぬ土地へたった一人で流れ着き。そこで、女手一つで子供を育てる。
それが、どれほど心細く恐ろしいことだったのか。
だからルナリーシアは、覚悟を決めた。
母が望むのなら、すべて、白日の下に晒してやろう、と。
そして、もう一つ。あの追伸には、引っかかる言葉があった。
『あなたには、オリヴィンの商人の血が流れているのだから。』
(……オリヴィンの、商人。)
限られた紙面の中で、母はなぜ、わざわざそんなことを書いたのだろう。
最初は単に、母方の血筋について言っているだけだと思った。けれど、何度も読み返すうち、ふと、昔の記憶が蘇った。
幼い頃、何か大事な約束をするたびに、母は決まって冗談めかして言ったものだ。
『それじゃあ、契約書を作らなきゃね。』
幼いルナリーシアには、その意味が分からなかった。
『どうして契約書なの?』
そう尋ねると、母はいつものように笑った。
『オリヴィンの商人はね、大切な約束は契約書に残すのよ。』
「…………。」
その記憶が蘇った瞬間、まるで雷に打たれたように、一つの可能性が脳裏を走った。
十六年前、ギエフ侯爵家と、母の生家であるサンカーヴィシュ商会との間で、何かが交わされたのだとしたら。
オリヴィンの大商人が、その重要な取り決めを口約束だけで済ませるだろうか。
(……ある。)
ルナリーシアは確信した。
(絶対に、何か残ってる。)
十六年前、母をオリヴィンから追い出した、その証拠が。あの母を育てた実家が何もしないはずがない。
だからあの時、ルナリーシアはガーディアスに、頼んだのだ。
◇
馬車の中には、ずっと沈黙が落ちていた。どれほど走っただろう。
オリヴィンの街を抜けた頃、馬に水を飲ませるため、一行は街道沿いの休憩所に立ち寄った。
「……少し、外の空気を吸ってきます。」
それだけ告げて、ルナリーシアは馬車を降りた。
背後から視線を感じる。振り返れば、馬車の窓越しに、ナディフ神官長が気遣わしげにこちらを見ていた。
けれど、何も言わなかった。
そのことが、今はありがたかった。
少し離れたところにある簡素な東屋まで歩き、腰を下ろす。
ふわり、と甘い香りが鼻先をくすぐった。
沈丁花だ。
春の訪れを告げる花。そして————母の好きな花。
「…………」
途端に、胸の奥が締め付けられた。
ルナリーシアは俯き、じっと自分の手元を見つめる。
————ザリ。
砂を踏む音がした。一定の間隔で近づいてくる、規則正しい足音。
顔を上げなくても、もう分かる。ここ数日、ずっとそばにいた、仏頂面の青年だ。
「……おい。」
「一人にして頂戴。」
頑なに告げても、足音は止まらない。
「……来ないでよ!」
それでも近づいてくる気配に、声を荒らげた。自分でも驚くほど、幼い子供のような声が出た。分かっている。
ただの八つ当たりだ。
それでも今は、独りでいないと————何かが決壊してしまいそうだった。
足音が、目の前で止まる。視界の端に、上等な革靴が映った。
ルナリーシアは顔を上げなかった。
「……ルナリーシア?」
やがてガーディアスが身を屈め、俯いた顔を覗き込んでくる。
仕方なく目を上げると、琥珀色の瞳には、珍しく隠しようもない心配の色が浮かんでいた。
「……泣いてなんか、いないわよ。」
ルナリーシアは笑ってみせた。
ちゃんと笑えているかどうかは、分からない。多少歪かもしれない。
「あんな奴のために、涙の一滴だって流してやらないんだから。」
「…………。」
ガーディアスが、わずかに目を見開いた。そして、何を思ったのか、その場に片膝をついた。
「……膝、汚れるわよ。」
上等な衣服の膝に、砂がつく。けれど、ガーディアスは気にも留めていなかった。
「……すまなかった。」
ガーディアスが、頭を下げた。丁寧に手入れされた黒髪が、さらりと額へ落ちる。
「十六年前、ギエフ侯爵が貴族という身分を振りかざし、そなたの母君に無体を働いたこと。」
静かな声だった。
「そして今、そなた自身の意思とは関係なく、我々がそなたを神殿へ連れて行こうとしていること。」
ルナリーシアは、何も言えなかった。
「何より————俺自身が、ギエフ侯爵家に残された記録だけを信じ、そなたと母君の尊厳を踏みにじるような言葉を口にしたこと。」
そこで一度、言葉を切る。
「貴族として。男として。そして————王宮より遣わされた者として。」
ガーディアスは、もう一度深く頭を下げた。
「謝罪する。……すまなかった」
ルナリーシアは、大きく目を見開いた。みるみる間に、くしゃりと、エメラルドの瞳が歪む。
「……あんたが謝ったって……!」
母の十六年は、帰ってこない。ルナリーシアが母と二人で送ってきた、決して楽ではなかった暮らしも何一つ、なかったことにはならないのだ。
「……分かっている。」
ガーディアスは顔を上げた。
「お前は、この謝罪を受け入れる必要はない。」
いつの間にか、その口調から公的な響きは消えていた。
「ギエフ侯爵を。俺を。貴族を。赦す必要もない。」
「…………。」
「いや――赦さなくていい。」
はっきりと、言い切った。
「これは、ただ俺がそうすべきだと思ったから謝っているだけだ。俺自身の誠意を示すためのものでしかない。……自己満足だと言われても、否定はできん。」
「……いいの? そんなこと言って。」
「構わん。」
即答だった。
ルナリーシアは、ぱちりと目を瞬いた。 この男は、きっと、相手が平民の娘であろうと、己の身分を盾にして何かを強いるような真似だけはしないのだろう。
何となく、そう思った。
「……あいつ。」
ぽつりと、声が漏れた。
「最後まで、謝らなかったのよ。」
「ああ。」
ガーディアスは、それだけ答えた。
「私にも、お母さんにも。一度も。」
「ああ。」
「あいつに、お母さんがどれだけ苦労したか、全部味わわせてやりたかった。」
「うん。」
「お母さんの前まで引きずっていって、地面に頭を擦りつけさせて……ちゃんと謝らせたかったの。」
口を開けば、次から次へと言葉が零れ落ちていく。
止められなかった。
今回の一件で、ギエフ侯爵は相応の責任を問われることになる。
それでも、おそらく、貴族としての身分まで奪われることはない。そのことが、どうしようもなく悔しかった。
「……結局。」
声が震える。
「身分って、越えられない壁なのね。」
ガーディアスは、何も言わなかった。
慰めることもら 否定することもしなかった。
ただ、そこにいた。
すべてを吐き出した後に残ったのは、ひどい疲労感と、どこにも持っていきようのないやるせなさだけだった。
ふわり。
沈丁花の香りが、先ほどより強くなる。
ガーディアスが空を見上げた。
「……もうすぐ、雨が降るな。」
ルナリーシアも顔を上げる。
いつの間にか、春の空には薄い灰色の雲が広がっていた。
「行こう、ルナリーシア。」
差し出された手を見る。
少しだけ迷って、ルナリーシアは、その手を取った。引かれるまま、立ち上がる。
ぽつり。
頬に冷たいものが触れた。
ガーディアスの言った通り、間もなく細かな雨が降り始めた。
雨粒が、沈丁花を濡らしていく。
一枚、また一枚と。
小さな花が、地面へ散っていく。
けれど————。
花が散った後にも、枝は残る。やがて夏が来れば、そこには眩しいほどの新緑が茂り、陽の光へ向かって葉を伸ばすのだろう。
過ぎた十六年は、戻らない。母が受けた傷も。自分たちが歩いてきた日々も。
きっと、この雨で消えてなくなりはしない。
それでも、この雨がほんの少しだけでも、これまでの痛みを洗い流してくれたなら。
ルナリーシアは、そう願わずにはいられなかった。




