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春の嵐(一)


「やっと暖かくなってきたわね。」

 

 晴れ渡った空を見上げ、少女はエメラルドの瞳をきらきらと輝かせた。心なしか、その足取りも軽い。

 歩くたび、後頭部で高く結えられた淡い金髪が、馬の尻尾のようにご機嫌にぴょこぴょこと揺れている。

 貧乏平民である彼女にとって、冬が終わるというのは、生きていくうえで実にありがたいことだった。


(薪代も浮くし、なんたって春は山菜や若芽が食べ放題! なんて素晴らしい季節なの……!)


 にっこにこと満面の笑みを浮かべて歩く少女を、道行く人々が振り返る。

 溢れんばかりに大きなエメラルドの瞳。陽光を浴びて眩いほどに輝く、淡い金髪。

 誰もが振り返る、とびきりの美少女だった。

 ただし、その脳内を占めているのは色気でも恋でもなく、金勘定である。


(もし、お金が浮いたら……古本、買いたいなぁ)


 そんな彼女は、年頃の娘ならば興味を持ちそうなお菓子や洋服、化粧品には、さほど関心がない。

 そう、彼女は無類の本好きだった。


「あ、いけない。お屋敷に急がないと」

 慌てて足を速める。

 

 彼女は、この片田舎ロシャスで地元の名士として知られる、とある商家に勤めていた。

 そこに勤めることを決めた理由は、いたって単純。

 何代も前の当主が大変な読書家で、その屋敷には膨大な蔵書を誇る書庫があるからだ。仕事の合間に書庫へ入ることも許されている。


(本当にいい勤め先だわ)

 多少、煩わしいことはある。それでも給金はそれなりに良いし、何より――。


(なんたって、貴族でもないのにあの蔵書量! 絶対に解雇されたくない!)

 本好きにとって、これほど素晴らしい職場はそうそうない。

 

 この一風変わった乱読家の美少女の名は、ルナリーシア————大の貴族嫌いである、平民の娘だった。


 彼女が貴族を、それこそ蛇蝎のごとく嫌うのには、理由がある。

 ルナリーシアと二人で暮らす母、シンシア。

 彼女は故郷オリヴィンで、一番の美女として知られていた。

 そんなシンシアに目をつけたのが、彼女が行儀見習いとして仕えていた屋敷の主――ギエフ侯爵だった。

 名門貴族であることを笠に着て、平民であるシンシアに無体を働いたのである。まったくもって、腹立たしい話だ。


 しかも最悪なことに、ギエフ侯爵がシンシアに手をつけたとき、正妻である侯爵夫人は第一子を身籠っていた。

 やがてシンシアに妊娠の兆候が見えると、侯爵は侯爵夫人の怒りを恐れ、保身のためにとんでもない噂を流した。


 ――シンシアが不埒にも侯爵を誘惑したのだ、と。


 その結果、シンシアは実家の怒りまで買い、故郷オリヴィンをその身一つで追い出された。そして流れ着いたこのロシャスで、ルナリーシアを産んだのである。


 それから今日に至るまで、ルナリーシアとシンシアは、母娘二人、肩を寄せ合いながら、どうにかこうにか貧しい暮らしを生き抜いてきた。


 貴族という身分を盾に、平民だった母に無体を働いた男。

 そのうえ、自らの罪を隠すために母へ無実の罪まで着せた、恥知らずで高慢な男――ギエフ侯爵。それがルナリーシアの実父である。

 だからこそ、彼女は貴族という生き物が大嫌いだった。


「そういえば、近いうちにロシャスへお偉いさんが来るらしいわよ」

 仕事の合間、使用人仲間のおばさんとの何気ない雑談に、思わぬ話が飛び込んできた。


「げっ。何ですか、それ」

 思わず、可愛らしさの欠片もない声が漏れる。


「何しに来るのかしらね、こんな田舎に」

「……さあ、何でしょうね」


 ルナリーシアは、あからさまに嫌そうな顔をした。


 そのとき――。

 びゅうっ、と春一番が吹き抜けた。

 淡い金髪が風を受け、絹糸のようにはためく。暖かな春の風。冬の終わりを告げる、穏やかな風。


 けれど、その風がやがて何を運んでくるのかを――このときのルナリーシアは、まだ知らなかった。

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