第3章。交差するカルテと、ふたつの家族。第9話。ガラスの向こうの主治医と、繋がれた小さな手。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第3章。交差するカルテと、ふたつの家族~
第9話。ガラスの向こうの主治医と、繋がれた小さな手
「……急性虫垂炎(盲腸)だ。かなり炎症が進んでいる。美琴ちゃん、今から緊急手術になるよ」
千秋先生の沈痛な、けれど迷いのない声が夜間診療室に響いた。
私は驚きと恐怖で息を呑み、ベッドの上でぐったりと横たわる我が子、陽太の小さな体を抱きしめるように身をこわばらせた。
「しゅ、じゅつ……!? 陽太がお腹を切っちゃうんですか……っ? そんな、どうしよう、先生……っ!」
生まれつき涙もろく、パニックになりやすい私の目から、再び大粒の涙が堰を切ったように溢れ出す。
そんな私を見て、千秋先生は看護師さんにテキパキと指示を出し始めた。
「すぐにオンコール(緊急呼び出し)で外科の当直医の先生を起こして。それから麻酔科と手術室の手配を急いで。一刻を争う」
「分かりました、千秋先生!」
看護師さんたちがバタバタと廊下を走っていく。
先生は私の前にゆっくりと屈み込むと、優しく私の肩に手を置いた。
「美琴ちゃん、落ち着いて聞いてね。僕は『小児科医』だから、実はお腹を切る手術を自分で執刀することはできないんだ。内科的な治療がお仕事だからね」
「え……っ」
じゃあ、千秋先生は陽太のそばにいてくれないの?
そう思った瞬間、私の胸を圧倒的な孤独感が襲いそうになった。
夫の拓海くんは家で酔いつぶれて眠っていて、連絡すらつかない。
この広い白い病院で、私はまた一人きりになってしまう。
けれど、千秋先生は私のそんな不安をすべて見抜いたように、ふにゃりと包み込むような笑顔を浮かべた。
「でもね、陽太くんの担当の小児科医(主治医)として、僕が美琴ちゃんの代わりに手術室に立ち会うよ。外科の先生の後ろで、麻酔で眠る陽太くんが寂しくないように、僕がずっと一番近くで手を握っているから。……だから、僕を信じて、ここで待っていてくれるかい?」
「先生……っ、はい、はい……っ。お願いします……!」
私は何度も何度も涙を拭いながら、大きく頷いた。
お互いに別の誰かの配偶者。
薬指には違う人の指輪。
それでも、この人は今、私が別の男性との間に産んだ大切な命を救うために、病院のルールの壁を越えて、一緒に戦おうとしてくれている。
その『医は仁術』の魂が、たまらなく愛おしくて、ありがたかった。
ガタガタと音を立てて、陽太のベッドが手術室へと運ばれていく。
千秋先生は白衣を脱ぎ捨て、緑色の手術着に着替えて、私に力強く頷いてみせると、重い金属の手術室の扉の向こうへと消えていった。
バチン、と音を立てて、扉の上の『手術中』という赤いランプが点灯する。
私は一人、誰もいない静かな長い廊下のベンチで、祈るようにカバンをぎゅっと抱きしめた。
冷たい夜の空気。
静寂が痛いほど耳に刺さる。
どれくらいの時間が経っただろう。
カバンの隙間から、あの五歳の夏休みに神様からもらった『水晶のお守り』がポロリと地面に落ちた。
拾い上げると、中の水晶が、まるで手術室の中の千秋先生の熱い鼓動を伝えるかのように、じんわりと温かい熱を帯びている。
「神様……ありがとうございます。千秋先生を、陽太のそばにいさせてくれて……」
私はお守りを胸に抱きしめ、涙を流しながら待ち続けた。
やがて、二時間が過ぎた頃。
プツン、と赤いランプが消え、重い扉がゆっくりと開いた。
中から出てきたのは、帽子を取り、額にうっすらと汗をにじませた千秋先生だった。
その表情は、いつもの穏やかな、ユーモアのある優しい先生に戻っていた。
「美琴ちゃん。手術は無事に大成功だよ。炎症を起こしていた場所は綺麗に切除できた。陽太くん、本当によく頑張ったよ。麻酔から覚めたら、すぐに一般病棟に移れるからね」
「……っ、よ、よかったぁ……っ! 先生、本当に、本当にありがとうございました……っ!」
私は極度の緊張から解放され、その場にへなへなと崩れ落ちるように泣き崩れてしまった。
千秋先生はそんな私をそっと支えるように肩を抱くと、ぽんぽんと優しい手つきで背中を叩いてくれた。
「ほらほら、お母さんがそんなに泣いていたら、せっかく頑張った陽太くんが心配しちゃうよ。さあ、病室へ行こう。僕が案内するね」
案内された静かな個室のベッドの上で、陽太はすやすやと規則正しい寝息を立てて眠っていた。
小さな手の甲には点滴の針が痛々しく刺さっているけれど、さっきまでの苦しそうな顔は嘘のように消えていた。
「よかった……本当に、よかった……」
陽太の頬に触れながら、私はまた涙をこぼした。
千秋先生は、そんな私と陽太の姿を、病室の入り口のドアに背を預けながら、どこか眩しそうに見つめていた。
「美琴ちゃんは、本当に立派なお母さんになったんだね。あんなに涙もろいのに、一人で陽太くんをここまで連れてきて、ちゃんと守り抜いたんだから。……僕の出した処方箋は、大正解だったよ」
先生の言葉に、私は胸を締め付けられる。
千秋先生。あなたは自分の幸せを犠牲にして私を逃がしたのに、どうして今でも、そんなに優しい目で私を見るのですか――。
深夜の病室、
小さな命の寝息だけが響く空間で。
お互いに家庭を持つ二人の、隠しきれない切ないカルテが、静かに交錯していたのだった。
(第9話・了。第10話へつづく)




