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第3章。交差するカルテと、ふたつの家族。第8話。交差するカルテと、震える再会。

50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ


〜第3章。交差するカルテと、ふたつの家族~


第8話。交差するカルテと、震える再会 


あの命がけの出産から、さらに四年の月日が流れた。 


私が命をかけて産んだ男の子は『陽太ようた』と名付けられ、元気に四歳の男の子へと成長していた。 


陽太は少し天然で涙もろい私の遺伝子をしっかり受け継いでいて、転ぶとすぐに大粒の涙を流すけれど、虫や動物が大好きな、心の優しい子だった。


夫の拓海くんも、仕事が忙しいながらも陽太をとても可愛がってくれていて、私たちはどこからどう見ても、平穏で幸せな「普通の家族」だった。 


千秋先生との思い出や、あの銀髪の神様のお告げの記憶は、育児に追われる日々の忙しさの中で、心の引き出しのずっと奥深く、触れてはいけない暗がりに眠ったままだった。


 ――しかし、


運命のカルテは、突然、残酷な音を立てて開き直る。 


冬の終わりの、ひどく冷え込む日の真夜中だった。


「……う、うう……ママ、いたい、おなか痛いぃ……っ」 


陽太の苦しそうなうめき声に気づき、私は飛び起きた。 


慌てて陽太の額に手を当てると、火がついたように熱い。


体温計を脇に挟むと、表示された数字は『三十九度八分』という、見たこともないような高熱だった。


「陽太!? しっかりして! 拓海くん、拓海くん起きて!」 


私はパニックになりながら、隣の部屋で寝ている夫を起こそうとした。


けれど、運悪くその日は拓海くんが大事な接待でひどくお酒を飲んで帰ってきた夜で、どれだけ揺さぶっても


「うーん……」


と低く唸るだけで、目を覚ます気配が全くなかった。


「どうしよう、どうしよう……っ」 


生まれつき涙もろくて、トラブルに弱い私の目から、一瞬で恐怖の涙が溢れ出す。 


陽太は苦しそうに呼吸を荒くし、小さな体を丸めて激しく泣いている。


ワンオペ育児の孤独と恐怖が、一気に私の肩にのしかかってきた。


「私が、この子を守らなきゃ……!」 


私は泣きながら陽太を厚手の毛布で包み、お財布とスマホ、そしてなぜか無意識のうちに、引き出しの奥から掴み取ったあの『水晶のお守り』をカバンに放り込んだ。


そして、夜間救急のタクシーに飛び乗り、地域で一番大きな総合病院の救急外来へと駆け込んだ。 


白く、冷たい病院のロビー。


「お母さん、落ち着いてください。今、小児科の当直の先生を呼びますからね!」


 看護師さんの声が遠く聞こえる。


私は陽太の小さな手を握りしめ、ただただ涙を流して祈り続けた。 


その時、廊下の奥から、ザッ、ザッ、と規則正しい、でも少し急ぎ足の足音が響いてきた。 


白衣をバサリと翻し、寝癖のついた髪を気にもとめず、こちらへ走ってくる男性。


「患者はどこだい!? ……あ」 


その声に、私は弾かれたように顔を上げた。 


そこに立っていたのは……


三十九歳になり、大人の男性としての圧倒的な風格と、知的な色気を纏った、小児科医長の千秋先生だった。


「……千秋、先生……?」


「……美琴、ちゃん……?」 


広い夜間診療所のロビーで、二人の時間が、一瞬だけ完全に静止した。 


最後に出会ったあの卒業式の日から、数年。


お互いに別の誰かと結婚し、違う人生を歩んできた二人が、まさか「医師」と「患者の母親」という、全く違うカタチで再会するなんて。 


千秋先生の瞳が、驚きと切なさで大きく揺れる。 


そして先生の視線は、私の左手の薬指にある、拓海くんから贈られた結婚指輪へと一瞬だけ落ちた。


先生の左手の薬指にもまた、別の銀色の指輪がはめられている。 


けれど、千秋先生はすぐにプロの顔に戻ると、私の前に素早く屈み込んだ。


「美琴ちゃん、状況を教えて。陽太くんは、いつから熱が?」


「ま、真夜中からです……っ。お腹を痛がって、熱が四十度近くあって……どうしよう、先生、陽太が、陽太が……っ!」 


涙で言葉にならない私に、千秋先生は、昔とまったく変わらない、あの大きくて温かい手を私の肩にそっと置いた。


「大丈夫だよ、美琴ちゃん。僕がここにいる。僕が絶対に、この子を助けるから。……先生を信じて」 


その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥の凍りついていた何かが、一気に溶け出していくような気がした。 


千秋先生は陽太を素早くベッドに移すと、聴診器を当て、手際よくお腹の触診を始めた。


その目は真剣そのもので、ユーモアを封印した、命と向き合う『医は仁術』の魂がそこにあった。


「……急性虫垂炎ちゅうすいえんだ。かなり炎症が進んでいる。美琴ちゃん、今から緊急手術を行うよ。幸い、僕が執刀できる。僕のすべてをかけて、君の大切な子供の命を救ってみせる」 


千秋先生は真っ直ぐに私を見つめて、力強く告げた。 


かつての恋人。


神様が一度は引き裂いたはずの許嫁。 


けれど今、この人は、私が別の男性との間に産んだ大切な命を、その両手で救おうとしてくれている。


「……先生、お願いします……っ。陽太を、おねがいします……っ!」 


私は深く頭を下げ、またしてもボロボロと涙を流した。 


千秋先生は無言で深く頷くと、陽太のベッドを押して、足早に手術室の奥へと消えていった。 


手術室の上の『手術中』の赤いランプが点灯する。 


私は一人、誰もいない静かな廊下のベンチで、祈るようにカバンをぎゅっと抱きしめた。 


その時、カバンの隙間から、あの神様からもらった『水晶のお守り』がポロリと地面に落ちた。


拾い上げると、中の水晶が、あの出産の時のように、ほんのりと温かい光を宿しているように見えた。


「神様……どうして、私たちをまた、こんな風に出会わせたのですか……?」 


お互いに別の家庭を持つ、交わってはいけない二人。


 大人の切ない現実のカルテが、陽太という小さな命を介して、再び激しく交錯し始めていたのだった。


(第8話・了。第9話へつづく)

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