第2章。すれ違う運命と、見守る背中。第7話。お腹の中のちいさな奇跡と、命が産まれる日。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第2章。すれ違う運命と、見守る背中~
第7話。お腹の中のちいさな奇跡と、命が産まれる日
結婚から三年が経った。
二十六歳になった私は、拓海くんの優しい支えのもと、穏やかで幸せな主婦生活を送っていた。
おっとりとした私の性格は相変わらずで、料理で塩と砂糖を間違えたり、何もないところで転びそうになったりしては、拓海くんに
「本当に美琴は目が離せないなぁ」
と苦笑いされる毎日だった。
そんな私たちの元に、ある日、神様からの新しい贈り物が届いた。
「美琴、本当におめでとう……! 俺、最高の父親になるからね」
手渡された妊娠検査薬の陽性反応を見て、拓海くんは私をそっと抱きしめてくれた。
私のお腹の中に、小さな、新しい命が宿ったのだ。
けれど、喜びと同時に、初めての妊娠生活は想像以上に過酷なものだった。
初期のひどいつわりに悩まされ、一日中吐き気に襲われる日々。
お腹が大きくなるにつれて、夜は寝返りもうてず、体中の節々が痛んだ。
何より、生まれつき涙もろくて不安になりやすい私は、
「ちゃんと元気な赤ちゃんを産めるのかな」
「私みたいな天然な人間が、立派なお母さんになれるのかな」
と、些細なことでポロポロと涙を流しては、毎晩ようにお腹をさすって泣いていた。
そんなある夜のこと。
不安で胸が押しつぶされそうになりながらベッドに横たわっていた時、ふと、学習机の引き出しの奥から、忘れていたはずの『あるもの』を取り出したくなった。
引き出しの奥の、鍵付きの木箱。
そこには、五歳の夏休みに神様からもらった『水晶が入ったお守り』が静かに眠っていた。
何年も触れていなかったはずのそのお守りを手のひらに載せた瞬間、不思議なことが起きた。
「……あたたかい?」
お守りの中の水晶が、まるで体温を持っているかのように、じんわりと優しく発熱したのだ。
その温もりが手のひらから体中へと染み渡っていく。
と同時に、頭の奥で、優しくて懐かしい誰かの声が響いた気がした。
『大丈夫だよ。僕が必ず、美琴ちゃんを笑顔にするからね』
それは、あの千秋先生の声だった。
先生は今、この街のどこかで、たくさんの子供たちの命を救うために戦っている。
「しっかりしなきゃ。先生が命がけで守っている子供たちの仲間を、私が今から産み落とすんだもの」
不思議とお守りの温もりのおかげで、私の胸の不安はすうっと消え去り、代わりに「この子を何があっても守り抜く」という、母親としての強い芯が初めて芽生えたのだった。
そして、季節は巡り、冬の寒さが本格的になったある日の真夜中。
お腹の奥を、これまでに経験したことのない激しい痛みが襲った。
「……っ、拓海くん、お腹が……っ!」
「美琴!? 陣痛だ、すぐ病院に行こう!」
拓海くんが慌てて車を回し、私は用意していた入院バッグとお守りをぎゅっと握りしめて、産婦人科の病院へと担ぎ込まれた。
そこからは、まさに命がけの戦いだった。
数時間おきに襲ってくる、信じられないほどの激痛。
腰を大きなハンマーで叩かれているような痛みに、私はベッドの柵を白くなるほど強く握りしめ、荒い息を繰り返した。
「美琴、頑張れ! 息を吸って、吐いて!」
拓海くんが私の汗を拭い、手を握りしめて必死に声をかけてくれる。
けれど、あまりの痛みの長さに、私の意識は次第に遠のきそうになっていった。
涙もろい私は、痛みと恐怖でまたしても涙が止まらなくなってしまう。
「痛い……痛いよぉ……っ、もう無理、かもしれない……っ」
弱音を吐きそうになったその時、分娩室の窓の外から、ひときわ強い冬の風がざあっと吹き込んできた。
窓は閉まっているはずなのに、なぜか部屋の中に、懐かしい神社の楠の葉の匂いが広がった気がした。
(お前ならできるさ。神である私が選んだ母親だからな)
幻聴かもしれない。
けれど、五歳の時に出会った、あの銀髪の神様の不敵な笑い声が、はっきりと耳の奥で聞こえた。
それと同時に、握りしめていたお守りの中の水晶が、カッと眩い光を放ったような錯覚を覚える。
体に、信じられないほどの新しいエネルギーが満ちていく。
「お母さん、頭が見えてきましたよ! 次の波で、思いっきりいきんで!」
助産師さんの力強い声が響く。
「……う、うああああああっ!!」
私は残されたすべての力を振り絞って、最後の大仕事に臨んだ。
大切な人のために、お腹の中のちいさな奇跡のために。
次の瞬間。
「オギャア、オギャア、オギャア……っ!!」
静まり返った分娩室に、張り裂けんばかりの、元気で、透き通った赤ちゃんの産声が響き渡った。
「産まれましたよ! 元気な男の子です!」
助産師さんが、生まれたばかりの我が子を、私の胸の上にそっと乗せてくれた。
まだ赤くて、温かくて、一生懸命に小さな手足をバタバタと動かしている、私の赤ちゃん。
「う、うわぁぁん……っ、よかった……よかったぁ……っ」
私は我が子の温もりを感じた瞬間、大声を上げて、今日一番の涙を流した。
これまでのどんな涙よりも、温かくて、誇らしい喜びの涙だった。
拓海くんも私の横で、ボロボロと涙を流しながら
「ありがとう、美琴。本当によく頑張ったね」
と、何度も何度も私の頭を撫でてくれた。
天然で涙もろかった少女は、この日、一人の立派な「母親」になった。
我が子を愛おしそうに抱きしめる拓海くんの横顔を見ながら、私は心の中で、神様へ、そしてお守りへ、心からの感謝を捧げていた。
――しかし。 この時、私たちが最高の幸せの中で産み落としたこの愛しい我が子が。 数年後、突然の重い病にかかり、あの千秋先生のいる小児科へと担ぎ込まれることになるなんて、今の私には知る由もなかった。
止まっていた運命のカルテの歯車が、この子の誕生によって、再び静かに回り始めていたのだった。
(第7話・了。第3章【再会編】へつづく)




