第3章。交差するカルテと、ふたつの家族。第10話。深夜の病室と、空白のカルテ。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第3章。交差するカルテと、ふたつの家族~
第10話。深夜の病室と、空白のカルテ
規律正しい医療機器の電子音だけが、静かに響く深夜の個室病室。
ベッドの上では、手術を終えた陽太が点滴を打たれながら、小さな胸を上下させてすやすやと眠っている。
さっきまでの高熱が嘘のように引き、顔色もすっかり良くなっていた。
「よかった……本当によかった……」
私は陽太の小さな手を包み込むように握りしめ、パイプ椅子に腰掛けたまま、またしてもポロポロと安堵の涙を流していた。
天然で涙もろい私は、感情が昂るとすぐに涙腺が緩んでしまう。
「美琴ちゃん、お疲れ様。陽太くんの容体はもう完全に安定しているよ。……ほら、温かいお茶でも飲んで、少し心を落ち着かせて」
背後からかけられた優しい声に振り返ると、千秋先生が缶のお茶を二つ手に持って、病室に入ってくるところだった。
先生は私の隣の椅子に腰掛けると、プルトップを開けてお茶を差し出してくれた。
「……ありがとうございます、先生。本当に、感謝してもしきれません」
お茶の温かさが、冷え切っていた私の指先から、張り詰めていた心へとじんわり染み渡っていく。
ふと、お茶を持つ千秋先生の左手に視線がいった。
……あ。 私は、自分の目を疑った。
数年前、病院のロビーや神社の境内で見たとき、先生の薬指には確かに上品な銀色の結婚指輪が光っていた。
けれど、今の先生の指には、何もはめられていない。
それどころか、長い間指輪をはめていなかったかのように、綺麗な肌のままだった。
私の視線に気づいたのか、千秋先生は苦笑いしながら、自分の左手をそっと白衣のポケットに隠した。
「気づいちゃったかい? あはは、隠すことでもないんだけどね。……僕、二年前に離婚したんだよ」
「え……っ? り、離婚、ですか……っ?」
驚きのあまり、私は小さな声を上げてしまった。
千秋先生はベッドの陽太を起こさないように「しーっ」と人差し指を唇に当てると、少し寂しそうに、でもどこかすっきりとした笑顔で語り始めた。
「親の勧めたお見合い結婚だったからね。最初からお互いに愛はなかったんだ。僕の心の中にはね、どうしても忘れられない、小さな、一途な女の子の幻影がずっと住み着いていて……。そんな不誠実な状態じゃ、相手の女性を幸せにできるわけがない。だから、話し合って円満に別れたんだ。僕は、美琴ちゃんを傷つけてまで選んだ結婚さえも、全うできなかった情けない男さ」
千秋先生のその言葉は、私の胸の奥を激しく突き刺した。
忘れられない女の子――それって、まさか、私のことなのだろうか。
先生は自分の幸せを犠牲にして私を逃がしたのに、そのせいで孤独になってしまっていたなんて。
他人の痛みに敏感な私の胸が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
「先生……私は、拓海くんと結婚して、幸せです。でも……」
嘘だった。
私は今、自分に嘘をついている。
千秋先生の前だからこそ、幸せな姿を見せなければいけないのに、不器用な私は、今の家庭のリアルな痛みを隠し通すことができなかった。
「でも、今日は……陽太が急に苦しだしたのに、夫はお酒を飲んでどうしても起きてくれなくて。一人で夜中に陽太を抱えてタクシーを呼んだとき、すごく、怖かったんです……っ。ワンオペ育児って、こんなに寂しいんだなって、ボロボロ涙が出てきて……」
しゃくりあげながら胸の内を吐露する私を、千秋先生は遮ることなく、ただ静かに見つめて話を聴いてくれた。
「美琴ちゃん。君は本当に、今まで一人でよく頑張ってきたんだね」
千秋先生はそう言うと、大きな、温かい手で、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
あの五歳の夏の日、
十五歳の公園、
二十二歳の卒業式。
私の人生の節目で、いつも私を救ってくれた、世界一優しい手の温もり。
「僕は独身に戻った。君には拓海くんという旦那さんがいる。だから、これは元恋人としての言葉じゃなくて、陽太くんの主治医としての言葉だと思って聞いてほしい」
先生は真っ直ぐに、吸い込まれそうなほど知的な瞳で私を見つめた。
「もう一人で泣かなくていい。これからは、陽太くんの体のカルテは僕が責任を持って預かる。君が子育てに疲れたり、不安になったりした時は、いつでもこの小児科に頼ってほしい。僕が、君のことも、陽太くんのことも、全力で支えるからね」
「先生……っ、う、うわぁぁん……っ」
私は我慢できず、千秋先生の白衣の袖に顔を押し当てるようにして、声を殺して泣き続けた。
千秋先生が独身に戻っていたという現実。
そして、変わらない圧倒的な包容力。
お互いに別の道を歩み、傷だらけになって再会した二人。
夜明け前の薄暗い病室で、止まっていたはずの二人の運命のカルテは、確実に、より深い愛のカタチへと書き換えられようとしていたのだった。
(第10話・了。第11話へつづく)




