第3章。交差するカルテと、ふたつの家族。第11話。秋風のワルツと、夕暮れのカルテ。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第3章。交差するカルテと、ふたつの家族~
第11話。秋風のワルツと、夕暮れのカルテ
冬の終わりのあの凍えるような夜に陽太が緊急手術をしてから、数ヶ月の月日が流れていた。
経過は極めて順調で、念のためにと続けていた定期的な通院カルテも、今日でついに最後。
完全に「卒業」となる退院の日を迎えた。
季節は巡り、世界はすっかり鮮やかな秋の色彩に染まっている。
大病院の前の並木道は、もみじや銀杏が赤や黄色に美しく色づき、乾いた秋の風が吹くたびに、カサカサと心地よい音を立てて舞い散っていた。
「まてまてーっ! あかいはっぱ、つかまえるぞー!」
すっかり元気を取り戻した四歳の陽太が、小さな体いっぱいに秋の空気を吸い込んで、並木道を元気に走り回っている。
木枯らしのような風がふわりと吹くたびに、地面の枯れ葉たちが、まるで陽太と一緒に遊んでいるかのように、彼の足元をくるくると楽しそうに回っていた。
「陽太、危ないからあまり遠くに行っちゃダメだよ。転んだらまたポロポロ涙が出ちゃうんだから」
おっとりとした声で呼びかけながら、私は陽太の小さな背中を見つめていた。
どこまでも無邪気な我が子の姿。
その健康な笑顔を見られることが、何よりも愛おしく、涙もろい私の目頭をまた少し熱くさせる。
この命が救われたのは、他でもない、あの人のカルテのおかげだ。
「あはは、本当に元気になったね。あの夜、お腹を抱えて泣いていたのが嘘みたいだ」
隣から、鈴が転がるような、でもどこか大人の渋みを増した優しい声が聞こえた。
振り返ると、そこには白衣の上から上品な秋物のストールを巻いた千秋先生が、ポケットに両手を突っ込んで立っていた。
陽太を見つめるその横顔を、沈みかけた大きな夕日が、オレンジ色の優しい光で包み込んでいる。
「千秋、先生……。わざわざお見送りに来てくださって、ありがとうございます」
「いやあ、僕のお気に入りのちいさなヒーローが卒業するんだから、主治医として挨拶に来るのは当然さ」
先生はいつものユーモア溢れる笑顔を私に向けたけれど、その視線が、陽太の足元で舞う枯れ葉へと移った瞬間、ふっと懐かしいものを見るように目を細めた。
「……ねえ、美琴ちゃん。こうして赤い葉っぱがくるくると回るのを見ているとね、なんだか思い出すんだ」
「何を、ですか……?」
私が小首を傾げると、千秋先生は夕日の光を眩しそうに浴びながら、静かに言葉を紡いだ。
「五歳の君だよ。あの夏の日、君の実家の神社でね、君はアリの行列を一生懸命応援しながら、地面に転がった楠の葉っぱを僕に見せてくれたんだ。『お医者さん、これ、きらきらのお守りだよ』って。……あの時の君の、吸い込まれそうなほど真っ直ぐで優しい瞳を、僕は今でも、この並木道を見るたびに思い出すんだよ」
トクン、
と心臓が大きな音を立てた。
先生の言葉の端々に、私への消えない愛おしさが滲んでいる。
お互いに別の道を歩み、先生は独身に戻り、私は別の男性の妻。
交わってはいけないはずなのに、夕日に照らされた先生の瞳は、あまりにも優しくて、私の胸を激しく締め付けた。
「先生……私は……」
他人の痛みがわかる私は、千秋先生が今、どれほどの寂しさを抱えて一人で生きているかが分かってしまう。
私の幸せを願って身を引いたせいで、先生は孤独なカルテを背負い続けているのだ。
千秋先生は私の揺れる瞳を見つめると、一歩、私に近づいた。
そして、あの大きな、温かい手で、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「美琴ちゃん。僕はもう、君の薬指の指輪を奪うような無茶はしない。君には拓海くんがいて、こんなに可愛い陽太くんがいる。……だからね、これが僕の、主治医としての最後の言葉(処方箋)だ」
先生は、風に舞うもみじの葉を一枚、そっと手のひらで受け止めると、私に向かって穏やかに微笑んだ。
「どんなに嵐の日があっても、君は世界一の優しいお母さんだ。もし、これから先……人生のカルテが、どうしても辛い言葉で埋まりそうになった時は、いつでも僕を思い出して。僕はいつでも、この街の小児科で、君たちの幸せを遠くから見守っているからね」
「先生……っ、う、うわぁぁん……っ」
私は我慢できず、夕暮れの並木道で、ぽろぽろと大粒の涙を流してしまった。
千秋先生は困ったように笑いながら、あの清潔なハンカチで私の涙を優しく拭ってくれる。
「ママ、泣かないで! 先生、ママをいじめちゃダメ!」
走り回っていた陽太が、慌てて戻ってきて私の足にしがみつき、千秋先生をぷくっと頬を膨らませて見上げた。
「あはは、ごめんごめん、陽太くん。ママがあまりにも綺麗だから、先生、少し感動させちゃっただけさ」
千秋先生はそう言って陽太の頭を撫でると、最後に私に「元気でね」と短く告げ、白衣の背中を夕日の中に溶け込ませるようにして、大病院のロビーへと歩いて戻っていった。
枯れ葉が、木枯らしに乗って空高くへと舞い上がっていく。
お互いの義務を果たすための、二度目の、そして長い別れ。
神様が決めた運命の糸は、お互いの家族を全うするという大人の誓いによって、再び遠く離れていくように見えた。
けれど、この秋の夕暮れの並木道での約束は、私たちの心に深く刻まれた。
これから先、何十年という長い年月を別の誰かと添い遂げたとしても、私たちの魂は決して離れない。
そして、それは、
50年という長い、長い遠回りの果てに、
もう一度あの神社で、50代になった美琴ちゃんと、白髪の混じった千秋先生が、誰にも遠慮せずに手を繋ぎ直すその奇跡の日のための、これは美しいプロローグだったのだ。
(第3章:交差するカルテと、ふたつの家族編 完 / 第4章へつづく)




