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第4章。激動の日々と、遠くで見守る背中。第12話。宿命のカルテと、二人の男。

50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ


〜第4章。激動の日々と、遠くで見守る背中~


第12話。宿命のカルテと、二人の男 


秋の夕暮れ、あの枯れ葉が舞い散る並木道で、千秋先生の白衣の背中を見送ってから――物語の時計は、信じられないほどの速さで、音を立てて回り始めた。 


私と千秋先生は、あの退院の日を最後に、本当に一度も会うことはなかった。 


連絡先を交換することも、お互いの近況を探ることもあえてしなかった。


それが、別の誰かと結婚し、それぞれの人生を全うすると誓い合った、私たち大人の誠実なルールだったからだ。


 私は、夫である拓海くんとの家庭を一生懸命に守り続けた。 


陽太が小学生になり、中学生になり、やがて反抗期を迎えて手を焼いた時も、おっとりとして天然な私は相変わらずドタバタと失敗ばかりしていたけれど、そのたびに拓海くんは「本当に美琴は変わらないなぁ」と優しく笑って私を支え続けてくれた。


拓海くんと過ごした日々には、確かな、穏やかな愛があった。 


しかし、私が五十歳を迎えた冬の初め。 


私たちの平穏な日々に、突如として暗い影が落ちた。


拓海くんが会社の健康診断で重い病気(悪性の腫瘍)を宣告され、そのまま倒れてしまったのだ。


「そんな……拓海くんが、どうして……っ」 


生まれつき涙もろく、パニックになりやすい私は、病院の廊下で医師からの説明を聞きながら、ボロボロと大粒の涙を流して立ち尽くしていた。 


治療は極めて困難で、この街の一般的な病院では手の施しようがないという。 


病室のベッドでみるみる痩せていく拓海くんの手を握りながら、私はワンオペの看病の孤独と、大切な人を失う恐怖に、毎晩のように声を殺して泣き崩れていた。


 ――そんな、絶望の淵に立たされていたある日の午後。 


病室のドアが、静かに開いた。


「失礼するよ。……美琴ちゃん」 


その懐かしい声に、私は弾かれたように顔を上げた。 


そこに立っていたのは、六十二歳になり、上品な白髪の混じった髪に、深く刻まれた目元のシワが知的な色気を醸し出している


――あの千秋先生だった。 


先生は今、この地域で一番大きな大病院の『院長先生』になっていた。


「千秋、先生……? どうして、ここに……」 


最後に出会ったあの秋の並木道から、二十数年ぶりの再会だった。 


千秋先生は私の腫らした目を痛々しそうに見つめると、白衣のポケットからあの清潔なハンカチを取り出し、優しく私の涙を拭ってくれた。


あの日々と全く変わらない、大きな、温かい手のひらの温もり。


「陽太くんから連絡をもらったんだ。お父さんが大変な病気で、ママが毎日泣いてボロボロになってるってね。……美琴ちゃん、僕は『小児科医』だから、大人の拓海くんを直接手術することはできない。外科学会に直接メスを入れることはできないんだ。でもね、今の僕は病院の院長だ」 


千秋先生は私の肩を優しく叩すると、真っ直ぐに私の瞳を見つめた。


その目には、命と向き合う『医は仁術』の、圧倒的なプロの輝きが宿っていた。



「日本で一番の、腫瘍外科の権威である高名な教授を、僕の権限でこの病院に呼び寄せた。明朝、拓海くんを僕の病院の特等室に転院させる。国内最高峰の医療チームを組んで、拓海くんの命を、僕が裏から全力でバックアップする。……だから美琴ちゃん、もう一人で泣かなくていい。僕を信じて」


「先生……っ、う、うわぁぁん……っ!」 


私は我慢できず、千秋先生の白衣の胸に顔を埋めるようにして泣きじゃくった。


自分の愛する女性が、別の男性のために泣いている。


それなのに、その男性の命を救うために自分の人脈と地位のすべてを投げ打って戦おうとしてくれる。


千秋先生のその底知れない優しさと高潔さに、美琴は魂の底から救われた。 


翌日、拓海くんは千秋先生の病院へと転院し、最高の医療チームによる治療が始まった。 


千秋先生の迅速な手配のおかげで、拓海くんの病状は奇跡的に一時持ち直し、激しい痛みから解放されて、穏やかな時間を過ごせるようになったのだ。 


転院から数週間が経った、ある静かな夜のこと。 


私が拓海くんの着替えを取りに実家へ戻っていた時間、病室には、千秋先生と拓海くんの「二人の男」だけが残されていた。


「千秋先生……。僕の命を繋ぎ止めてくださって、本当に、ありがとうございます」 


ベッドの上に身を起こした拓海くんは、点滴の管に繋がれた手を動かし、千秋先生に向かって深く頭を下げた。 


千秋先生は窓の外の夜景を見つめたまま、白衣のポケットに両手を突っ込んで、穏やかに首を振った。


「礼を言うのは僕の方さ、拓海くん。君がこの二十数年間、美琴ちゃんを普通の、一番綺麗な幸せの中で守り続けてくれた。……君は、最高の旦那さんだ。一人の男として、僕は君を深く尊敬しているよ」 


千秋先生の言葉に、拓海くんはふっと、すべてを悟ったような優しい笑みを浮かべた。 


拓海くんは、自分の妻である美琴ちゃんが幼い頃、この千秋先生と神様の約束を交わしていたことを、そして自分のためにその記憶に蓋をしていたことを、ずっと薄々気づいていたのだ。


「先生。僕は……美琴と結婚できて、世界一幸せでした。ベッドの上に身を起こした、僕のカルテのページは、もうすぐ終わりを迎えようとしています。医学の限界は、僕自身が一番よく分かっていますから……」 


拓海くんは自分の細くなった右手を、千秋先生の前にそっと差し出した。


「だから先生……僕がいなくなったら。どうか、泣き虫で天然な僕の妻を……もう一度、先生の手で笑顔にしてやってください。美琴を、僕の代わりに……最後まで、よろしくお願いします」 


夫としての、男としての、命をかけた最後のバトン。 


千秋先生は白衣のポケットから手を取り出すと、拓海くんの手を、両手でぎゅっと、強く強く握りしめた。


先生の目からも、一筋の熱い涙が頬を伝って流れ落ちていた。


「ああ、約束するよ、拓海くん。男の約束だ」 


深夜の個室病室。 


お互いに別の人生を歩み、傷だらけになりながらも、目の前の命と愛する人のために全力を尽くす二人の男の、最も高潔で美しい約束が、そこに交わされていたのだった。


(第12話・了。第13話へとつづく)


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