第4章。激動の日々と、遠くで見守る背中。第13話。最後のカルテと、新しい一歩。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第4章。激動の日々と、遠くで見守る背中~
第13話。最後のカルテと、新しい一歩
千秋先生が手配してくれた国内最高峰の医療チームと、穏やかな緩和ケアのおかげで、夫の拓海くんは激しい痛みに苦しむこともなく、穏やかな時間を過ごすことができていた。
おっとりとした私は、毎日拓海くんの好みのスープを作って病室へ通い、涙もろい目を腫らしながらも、彼の前ではできる限りの笑顔を作って寄り添い続けた。
そして、厳しい冬の寒さが少しだけ和らいだ、ある朝のこと。
拓海くんは、私の手をぎゅっと握りしめながら、静かに、本当に満足そうな笑みを浮かべた。
「美琴……お前と結婚できて、本当に幸せな人生だったよ。たくさん、たくさん、ありがとう」
それが、拓海くんの最期の言葉だった。
私の腕の中で、彼は眠るように天国へと旅立っていった。
私は声を上げてボロボロと涙を流した。
拓海くんと歩んだ二十数年間は、私にとって間違いなく温かい、大切な私の人生そのものだったからだ。
病室の入り口のドアに背を預けながら、千秋先生もまた、静かに涙を流して拓海くんの冥福を祈ってくれていた。
先生が裏から全力で支えてくれたからこそ、拓海くんは最期まで笑顔でいられたのだ。
――それから、さらに数年の月日が流れた。
拓海くんの葬儀を終え、陽太も自分の家庭を持って立派にお父さんをやっている。
一人になった静かな一軒家で、私は静かに日々を過ごし、気づけば五十五歳を迎えていた。
同じ頃、街の一番大きな大病院の院長室。
六十七歳になった千秋先生は、白髪の混じった美しい髪を少し揺らしながら、机の上に山高く積まれた資料やカルテの整理を終え、深く息を吐き出していた。
今日、千秋先生は長年勤め上げた大病院の院長を退任する日を迎えていた。
コンコン、
とドアがノックされ、次代の院長となる若い医師や、長年一緒に戦ってきた看護師長たちが入ってくる。
「千秋先生、本当に、長い間お疲れ様でした。先生が救ってきた数万人の子供たちの笑顔は、この病院の宝物です。寂しくなりますね……」
「あはは、みんな大げさだなぁ。僕はただ、大病院の重い椅子に座るのが少し窮屈だっただけさ。これからは、もっと子供たちの近くにいられる場所へ移るだけだよ」
千秋先生はいつものユーモア溢れる笑顔で周囲を笑わせたけれど、その目には、大病院のトップとしての責任を果たし、これからは一人の『街の小さなお医者さん』として生涯現役で生きていくという、静かで熱い情熱が宿っていた。
花束を受け取り、周囲の見送りを受けて、静まり返った夜の院長室に一人戻った千秋先生。
先生は、長年自分の皮膚の一部のように纏い続けてきた、院長の重圧が詰まった真っ白な白衣をゆっくりと脱いだ。
それを丁寧に折り畳んで机の上に置く。
そして、ジャケットの胸ポケットから、古びた、でも今でもきらきらと綺麗に磨かれた『ピンク色のプラスチックのおもちゃの指輪』をそっと取り出した。
五歳の美琴ちゃんにはめてあげた、あの日の指輪。
千秋先生はこの数十年間、激しい執刀の後も、深夜の救急の合間も、いつもこの小さな指輪をポケットに忍ばせ、心の支えにしていたのだ。
「美琴ちゃん。拓海くんとの約束も、大きな病院での義務も、僕はすべてやり遂げたよ。これからはね、自分のために、そして君のために、新しいカルテを開こうと思うんだ」
千秋先生はおもちゃの指輪を愛おしそうに見つめ、深く目元のシワを刻んで微笑んだ。
「何十年も待たせてしまったね。さあ、僕の、小さなお嫁さんの元へ帰ろうか」
先生は指輪をそっと上着のポケットに仕舞い込むと、院長室の電気を消し、確かな足取りで歩き出した。
お互いに別の相手を最後まで愛し抜き、すべての人生の義務を果たした二人の魂。
神様が決めた運命の赤い糸は、半世紀という気の遠くなるような時間を経て、今度こそ、誰にも引き裂かれない現世での本当の奇跡を起こそうとしていた。
すべての終わりであり、すべての始まりの場所
――あの夏の神社へと、二人の足跡が静かに向かい始めていた。
(第13話・了。第14話へとつづく)




