第2章。すれ違う運命と、見守る背中。第5話。すれ違いの果て、それぞれの誓い
50年目の恋文 〜神様の決れた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第2章:すれ違う運命と、見守る背中~
第5話。すれ違いの果て、それぞれの誓い
病院のロビーで、千秋先生のまばゆい白衣の背中と、その薬指に光る結婚指輪を見てから、さらに二年の月日が流れた。
私は二十二歳になり、大学の卒業式を迎えていた。
華やかな袴姿に身を包んだ私に、並木道で見劣りしないほど立派なスーツを着た拓海くんが、一本の真っ赤なバラの花を差し出してくれた。
「美琴、卒業おめでとう。……それと、俺と結婚してくれませんか」
それは、どこまでも真っ直ぐで、誠実なプロポーズだった。
拓海くんは大学を卒業後、地元の一流企業に就職が決まっている。
優しくて天然な私をいつも守ってくれて、私の家族も友達も大切にしてくれる、これ以上ないほど満点の恋人だ。
おっとりとした私の目から、ぽろぽろと涙が溢れ落ちる。
嬉しいはずなのに、胸の奥がほんの少しだけチクリと痛む。
けれど、私はその痛みを「大切な人と新しい人生を始める緊張感だ」と自分に言い聞かせ、涙を拭って笑顔で頷いた。
「……はい。私でよければ、よろしくお願いします」
これでいいんだ。
私は普通の女の子として、普通の幸せを掴むんだ。
千秋先生が教えてくれた『最後の処方箋』の通りに、私は自分の足で歩き出したのだから。
――けれど、そのプロポーズの翌週。
私は不思議な導きに誘われるように、足が勝手にあの実家の神社の境内へと向かっていた。
最近はすっかりお参りに来なくなっていた古い境内。
大きな楠の木の下に立つと、ざあっと温かい風が吹き抜け、私のスカートを揺らした。
「……神様?」
ふと、そんな言葉が口を突いて出た。
頭の霧の向こうに、銀色の髪をした、お茶目な羽のある誰かの姿が一瞬だけ見えた気がした。
けれど、やっぱり具体的なお告げの内容までは思い出せない。
失恋の傷と一緒に封印した記憶は、そう簡単には開かないようだった。
「あら、美琴ちゃんじゃないか。久しぶりだね」
突然、背後からかけられた懐かしい声に、心臓が大きく跳ねた。
振り返ると、そこにいたのは……千秋先生だった。
三十五歳になった先生は、白衣ではなく上品な私服姿で、手にはあの日と同じように、神社のお賽銭箱へ入れるための小銭を握りしめていた。
驚きのあまり立ち尽くす私に、先生は昔と変わらない、あのユーモアを含んだ笑顔を向けてくれた。
「大学、卒業したんだね。おめでとう。さっきお父さん(宮司さん)から聞いたよ。……それに、結婚するんだって?」
先生の言葉に、私は胸を突かれたように、自分の右手の薬指を隠した。
そこには、拓海くんから贈られた婚約指輪が光っている。
「……はい。同じ大学の、とても優しい人と、結婚します」
「そっか。よかった」
千秋先生は、本当に嬉しそうに目を細めた。
その瞳には、かつて私を引き離した時の冷たさは微塵もなく、ただただ親戚のお兄ちゃんのような、深い慈愛の光だけが満ちていた。
「これで、僕の出した『最後の処方箋』も、ようやくお役御免だね。君が素敵な旦那さんと出会って、普通の、一番綺麗な青春を過ごしてくれて、僕は本当に安心したよ。……おめでとう、美琴ちゃん」
千秋先生はそう言って、私の頭を、大きな、温かい手でぽんぽんと撫でてくれた。
あの日、五歳の夏休みに、私のぶかぶかの薬指に指輪をはめてくれた時の温もり。
十五歳の夕暮れ、公園で私の涙を拭ってくれた時の温もり。
そのすべてが手のひらから伝わってきて、私の涙もろい目から、またしても決壊したようにボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「う、うわぁぁん……っ、千秋先生……っ」
二十二歳にもなって、私は五歳の子供のように声を上げて泣いてしまった。
千秋先生は困ったように眉を下げて、やっぱりあのアイロンのきいた清潔なハンカチをポケットから取り出すと、私の目元を優しく拭ってくれた。
「こらこら、これから花嫁さんになる子が、そんなに泣いちゃダメだよ。僕のポケットにはね、もうおもちゃの指輪は入っていないんだ。……代わりに、これからはその指にある本物の指輪を、何よりも大切にするんだよ」
先生の左手の薬指には、やはり銀色の結婚指輪がはめられている。
お互いに、別の誰かを愛し、別の誰かと家庭を築く。それが大人の世界のルールであり、私たちが選んだ誠実な生き方なのだ。
「はい……っ、私、絶対に、幸せになります……! 先生も……先生も、奥様と、絶対に幸せになってください……っ!」
泣きじゃくりながら告げた私の言葉に、千秋先生は一瞬だけ切なそうに目を伏せたけれど、すぐに
「ああ、約束するよ」
と力強く微笑んだ。
「バイバイ、美琴ちゃん。元気でね」
先生はそう言って、最後に優しく手を振ると、一度も振り返ることなく鳥居の向こうへと去っていった。
その背中を見送りながら、私は胸の奥で、自分自身に強く誓った。
千秋先生がこれほどまでに私の幸せを願ってくれたのだから、私は拓海くんを命がけで愛し、世界一の家庭を築いてみせる、と。
こうして、私たちは一度、完全にお互いの人生から退場した。
それぞれの結婚、
それぞれの生活、
それぞれの義務。
神様が決めた運命の赤い糸は、現世の荒波によって引きちぎられ、二度と交わることはないように思われた。
しかし、神様が一度カルテに書き込んだ二人の運命は、人間の想像を遥かに超えた場所で、静かに次の奇跡の瞬間を待っていた。
数年後、私が「母親」となり、千秋先生が「小児科医長」として、あの白衣の戦場で再び相まみえることになるその日まで――。
(第2章:学生・別離編 完 / 第3章へつづく)




