第2章。すれ違う運命と、見守る背中。第4話。止まった時計と、雨宿りのロビー。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ~
〜第2章。すれ違う運命と、見守る背中~
第4話。止まった時計と、雨宿りのロビー
千秋先生が私の前から姿を消して、二年の月日が流れた。
私は二十歳になり、大学二年生の夏を迎えていた。
あの日の失恋のショックは、時が経つにつれて穏やかな記憶の砂へと埋もれていった。
それと同時に、不思議なことに、幼い頃に実家の神社で見たはずの『銀髪の神様』の記憶や、神様から告げられた言葉は、いくら思い出そうとしても霧の向こうに隠れたように頭に浮かばなくなっていた。
机の奥の木箱に、おもちゃの指輪と水晶のお守りが眠っていることさえ、今の私はすっかり忘れてしまっている。
「美琴、次の講義のノート、貸してくれてありがとう! 本当に助かったよ」
大学のキャンパスの並木道。
そう言って爽やかに笑いかけてくれたのは、同じ文学部の同級生である『拓海』くんだった。
拓海くんは明るくて優しく、少し天然な私をいつもさりげなくフォローしてくれる、とても誠実な男の子だ。
「ううん、どういたしまして。拓海くん、サークルの練習で忙しそうだったから」
「あはは、見抜かれてるなぁ。……ねえ、美琴。もしよかったら、この後のサークル終わりに、新しく駅前にできたカフェに行かない? お礼に美味しいケーキ、ごちそうさせてほしいんだ」
拓海くんが少し耳を赤くしながら、真っ直ぐに私を見つめて誘ってくれる。
その視線にある温かい好意に、私は気づいていた。
周囲の友達からも「二人は付き合っちゃえばいいのに」と、よくからかわれている。
「うん、嬉しい。じゃあ、講義が終わったらロビーで待ち合わせね」
私は微笑んで頷いた。
拓海くんといると、とても穏やかで、波風の立たない時間が流れる。
これがきっと、千秋先生が言っていた『普通の幸せ』というものなのだろう。
胸の奥に、ほんの少しだけ冷たい風が吹くような気がしたけれど、私はそれに気づかないふりをして、自分の心に蓋をした。
――しかし、神様が結んだ運命の悪戯は、私がどんなに忘れようとしても、奇妙な形で私たちを巡り合わせる。
講義が終わり、夕方。
拓海くんと駅前のカフェでお茶を楽しんだ帰り道のことだった。
さっきまで穏やかに晴れていた空が、突然、真っ黒な雨雲に覆われたかと思うと、バケツをひっくり返したような激しい豪雨が降ってきたのだ。
「うわっ、すごい雨! 美琴、こっちだ、走ろう!」
拓海くんが自分の上着を私の頭の上に掲げてくれ、二人は雨を避けるように、目の前にあった大きな建物のエントランスへと滑り込んだ。
肩で息をしながら雨を拭い、ふと周囲を見渡して、私は息を呑んだ。
そこは、私が二度と近づかないと決めていた、千秋先生が勤務するあの地域一番の総合病院の一階ロビーだった。
白い壁、消毒液の独特な匂い、静かに行き交う車椅子の音。
忘れていたはずの記憶が、心臓をチクリと刺す。
「ひどい雨だね。しばらくここで雨宿りさせてもらおうか」
拓海くんが優しく微笑みかけてくれるけれど、私の耳には彼の声がうまく届かなかった。
ロビーの奥にある、小児科外来の待合スペース。
そこから、小さな男の子のはげしい泣き声が響いてきたからだ。
「痛いよぉ、お注射いやだぁ……っ!」
お母さんにしがみついて泣き叫ぶ男の子。
周囲の大人たちが困り果てた顔で見守る中、奥の診察室から、一人の男性が足早に歩み寄ってきた。
白衣を翻し、少し目元に疲れをにじませながらも、どこまでも温かいオーラを纏った人。
――千秋先生だった。
先生は男の子の前にそっと屈み込むと、子供と同じ目線になって、自分の白衣のポケットをごそごそと探った。
「おや、そこの小さなヒーロー。どうしてそんなに涙を流しているんだい? せっかくのかっこいいお顔が台無しだよ」
千秋先生のユーモアに満ちた優しい声が、広いロビーに響く。
先生がパッと手をかざすと、手のひらから可愛いクマのイラストが描かれた折り紙の風船が飛び出した。
手品のようなその動きに、男の子はピタリと泣き止み、丸い目で先生を見つめる。
「ほら、この風船はね、痛い虫を全部吹き飛ばしてくれる魔法の風船さ。先生と一緒に、ちいさなチクッを乗り越えてみようか」
先生が優しく頭をぽんぽんと撫でると、男の子は涙を拭いて、こっくりと頷いた。
他人の痛みがわかり、病気だけでなく心まで救おうとする『医は仁術』の姿。
それは、私が十五歳の時に恋に落ちた、あの頃とまったく変わらない、世界一格好いいお医者様の姿だった。
「……あ」
私の目から、自覚もないまま、ポロポロと涙が溢れ落ちてしまった。
生まれつき涙もろい私は、その光景を見ただけで、胸の奥が張り裂けそうになってしまったのだ。
どうして私は、この人の隣にいることを諦めてしまったのだろう。
どうして、別の誰かで誤魔化そうとしているのだろう。
「美琴……? どうしたの、急に泣いたりして。どこか具合が悪いの?」
隣にいた拓海くんが、私の涙に驚いて顔を覗き込んできた。
「あ、ううん……なんでもないの。ただ、あのお医者さん、すごく優しいなと思って……」
私は慌ててハンカチで涙を拭った。
その時、小児科の待合室にいた千秋先生が、ふとこちらに視線を向けたような気がした。
広いロビーの端と端。
けれど、先生は私と、そして私の隣で心配そうに肩を抱き寄せようとしている拓海くんの姿を、確かにその目にとらえていた。
千秋先生の瞳が、一瞬だけ、ひどく切なそうに揺れたのを私は見逃さなかった。
先生の左手の薬指には、上品な銀色の結婚指輪が、鈍く光っている。
先生はすぐにいつもの優しい笑顔に戻ると、男の子を連れて診察室の奥へと消えていった。
「雨、少し小降りになってきたね。美琴、行こうか」
「……うん」
拓海くんに促され、私は病院のロビーを後にした。
振り返ることはしなかった。
お互いに、もう別の誰かの指輪を見つめるだけの他人なのだ。
千秋先生には守るべき家庭があり、私にもこれから築くべき普通の未来がある。
激しい雨が止んだ後の夜空には、冷たい月が浮かんでいた。
大人の現実という壁に阻まれた二人の時計は、完全に止まってしまったかのように見えた。
けれど、この「偶然の雨宿り」さえも、実は二人の運命の糸を繋ぎ止めるための、神様の小さなお告げ(悪戯)であったことを、私はまだ知る由もなかった。
(第4話・了。第5話へつづく)




