第2章。すれ違う運命と、見守る背中。第3話。冷たい背中と、心の引き出し
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第2章:すれ違う運命と、見守る背中~
第3話:冷たい背中と、心の引き出し
十五歳のあの夕暮れ、公園で交わした約束は、私の世界のすべてだった。
千秋先生の隣をずっと空けておく。
大人になったら、本当にお嫁さんになる。
天然で涙もろい私は、その夢だけを胸に抱いて、十八歳の春を迎えた。
無事に地元の大学の文学部に合格し、少し大人びた私服に身を包むようになった私は、期待に胸を膨らませていた。
「これでようやく、千秋先生に少しだけ近づけたかもしれない」
そんな風に思っていたのだ。
けれど、現実はそんなに甘くはなかった。
大学に入学して間もないある日、私は千秋先生から「大事な話があるから、いつもの神社で待っていてほしい」と連絡をもらった。
嬉しくて、お気に入りの薄ピンク色のワンピースを着て、私は境内の楠の木陰で待っていた。
「待たせてごめんね、美琴ちゃん」
鳥居をくぐってきた千秋先生は、三十三歳になっていた。
小児科の医長という責任ある立場になり、大人の色気と落ち着きを増した先生は、相変わらず私の王子様だった。
けれど、その足取りはどこか重く、私を見る瞳には、いつもの悪戯っぽいユーモアの光が消えていた。
「ううん、全然待ってないです! 先生、お仕事お疲れ様です」
私が満面の笑みで駆け寄ると、先生は私の顔を真っ直ぐ見ようとせず、そっと視線を斜め下に落とした。
その冷たい空気に、私の胸が嫌な音を立てて跳ねる。
「美琴ちゃん。……突然なんだけど、僕、結婚することになったんだ」
カラン、
と頭の中で風鈴が激しく鳴ったような気がした。
先生の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
耳の奥がじーんと熱くなり、心臓が痛いほど脈打つ。
「え……? けっこん、ですか……?」
「うん。実家の病院の跡継ぎ問題もあってね。親の勧める、とても格式の高いお家のお嬢さんとの縁談なんだ。来月には結納を交わすことになった」
千秋先生の声は、驚くほど冷静で、そして冷たかった。
いつも私の痛みに気づいてくれた優しい先生とは、まるで別人のようだった。
「でも……先生、十五歳のときの約束は……っ。私の隣を空けておいてって、言ってくれたのは……!」
生まれつき涙もろい私の目から、一瞬で大粒の涙が溢れ出した。
視界が滲む。
それでも、先生の顔を見つめ続けた。
けれど、千秋先生は私の涙を見ても、ハンカチを出してはくれなかった。
ただ、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、微動だにせず冷ややかな声を紡ぐ。
「美琴ちゃん。あれは、ただの子供のママゴトだよ。僕だって、当時は仕事に疲れていて、君の無邪気な可愛さに少し癒やされたくて、話を合わせただけなんだ」
「……嘘、です」
「嘘じゃないさ。考えてもみみなよ、僕はもう三十三歳だ。君はまだ十八歳の、これからいくらでも楽しい青春が待っている大学生だ。年の差だって、世間の目だってある。いつまでも子供の頃の『神様のお告げ』なんて迷信に縛られていたら、君の未来が台無しになってしまう」
先生は私に背を向けた。
その広い背中が、今の私には冷たい鉄の壁のように見えた。
「もう、ここへもお参りには来ない。指輪も、お守りも、全部捨てて、同世代の素敵な男の子と普通の恋をして幸せになりなさい。……それが、僕の最後の処方箋だ」
先生はそれだけを言い残すと、一度も振り返ることなく、足早に鳥居の向こうへと去っていった。
「先生……! 千秋先生……っ!!」
叫んでも、その背中が戻ってくることはなかった。
私は境内の砂利の上に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
胸が引き裂かれるように痛かった。
他人の痛みがわかるはずの千秋先生が、どうしてこんなにひどいことを言うのだろう。
――けれど、天然で不器用な私は、気づけなかった。
去っていく千秋先生の白衣のポケットの中で、両手が血がにじむほど強く握りしめられていたことに。
私に背を向けた先生の目からも、私と同じように、ボロボロと涙が溢れ落ちていたことに。
「僕みたいな大人のエゴで、君の輝かしい青春を奪うわけにはいかないんだ……。君には、普通の幸せを掴む権利がある。ごめんね、美琴ちゃん……」
先生は、自分の幸せをすべて投げ打ってでも、私を「普通の幸せ」へと逃がすために、あえて悪者になる道を選んだのだ。
その夜、私は自室で、声を殺して泣き続けた。
あまりのショックと心の痛みに、私の防衛本能が働いたのかもしれない。
私は、机の奥から取り出したピンクのおもちゃの指輪と、水晶のお守りを、これ以上ないほど深い引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
「……もう、終わりにしなきゃ」
鍵をガチャリと閉めた瞬間、不思議なことが起きた。
頭の芯が、すうっと冷たくなっていくような感覚。
あんなに鮮明だった、五歳の夏休みに本殿の屋根の上で笑っていた銀髪の神様の姿が、霧の向こうに消えていくように思い出せなくなっていく。
「私……神様に、何を言われたんだけ……?」
千秋先生への恋心という、あまりにも大きすぎた傷。
私の心は、その痛みを忘れるために、大切な『神様のお告げ』の記憶ごと、心の底の引き出しへと封印してしまったのだった。
こうして、神様に結ばれたはずの運命の赤い糸は、大人の現実という冷たい鋏によって、ぷつりと切られてしまったかのように見えた。
お互いに「別の誰か」と歩む、長く切ない、遠回りの半世紀が、ここから幕を開ける。
(第3話・了。第4話へつづく)




