第1章。始まりは神様のいたずら。第2話。大きくなった指輪と、消えない約束。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第1章:始まりは神様のいたずら~
第2話:大きくなった指輪と、消えない約束
あの不思議な夏の日から、十年の月日が流れた。
五歳だった私は、十五歳の高校生になった。 おっとりしていて、悲しいことや嬉しいことがあるとすぐに感動してポロポロと涙を流してしまう涙もろい性格は、相変わらずだ。
学校の友達からはよく「美琴は本当に天然だよね」「見ていて飽きないよ」と笑われてしまう。
けれど、私には周囲の友達には絶対に言えない、大切な秘密の宝物があった。
自室にある学習机の、一番下の引き出しの奥。 鍵付きの小さな木箱の中には、あの日からずっと守り続けてきた、小さな布製の『水晶が入ったお守り』と、ピンク色の『プラスチックのおもちゃの指輪』が大切に仕舞われている。
五歳の頃はぶかぶかで、指を動かすだけでずるりと落ちてしまっていたそのおもちゃの指輪を、久しぶりに右手の薬指にはめてみる。
驚いたことに、成長した今の私の指に、それはあつらえたようにぴったりと収まった。
「……本当に、大きくなったらお嫁さんになれるのかな」
夕日に照らされるピンク色のプラスチックを見つめながら、私はぽつりと呟いた。
頭の中に浮かぶのは、あの優しい医大生のお兄さん――千秋さんの姿だ。
千秋さんはあの夏の日以降も、約束通り、時々我が家の神社にお参りに来てくれた。
大学での難しい試験や実習の合間、息抜きだと言っては境内のベンチに腰掛け、私のアリの観察や泥団子作りに、いつも眩しそうな笑顔で付き合ってくれたのだ。
私が小学生、中学生と大きくなる姿を、彼は一番近くで見守ってくれていた。
そして現在。
三十歳になった千秋さんは、無事に難関の国家試験に合格し、街で一番大きな総合病院で『小児科医』として働いている。
白衣をバサリと羽織った今の千秋さんは、昔よりもずっと大人っぽく、頼もしくなって、病院中の子供たちや看護師さんから慕われる素敵な先生になっていた。
ある平日の夕方。私は学校の帰りに、千秋先生が勤務する総合病院の近くを通りかかった。
少しだけ先生の働く姿が遠くからでも見られたらいいな、なんて淡い期待を抱きながら歩いていると、病院の裏手にある小さな公園のベンチに、白いコート――白衣を羽織った男性がぽつんと座っているのが見えた。
千秋先生だった。
けれど、いつものユーモア溢れる優しい笑顔は、どこにもなかった。
先生は白衣のポケットに両手を深く突っ込み、険しい表情で地面の一点を見つめたまま、今にも消えてしまいそうなほど深く、重いため息をついていた。
その背中は、ひどく小さく見えた。
「……千秋、先生?」
私が恐る恐る声をかけると、先生はびくっと肩を揺らし、慌てていつもの優しい笑顔を作って顔を上げた。
「おや、美琴ちゃん。制服姿ってことは、学校の帰りかい? 今日も相変わらず可愛いね。いやあ、女子高生の制服パワーで、先生の疲れも一気に吹き飛んじゃいそうだよ」
いつものように冗談めかして言ってくれるけれど、その声はひどく掠れていて、目の下には寝不足の濃いクマができていた。
他人の心の痛みに敏感な私の胸が、ぎゅっと苦しく締め付けられる。先生は今、冗談で自分の傷を隠そうとしている。それが痛いほど伝わってきた。
「先生、お疲れなんですか……? どこか、お体が痛むんじゃ……」
心配になってカバンを握りしめながら駆け寄ると、先生は力なく首を振って、ふっと視線を落とした。
「ううん、体は元気さ。ただね……ちょっと、小児科医としての自分の無力さに、ひどく凹んでいたところなんだ」
先生は自嘲気味に苦笑いしながら、ぽつりぽつりと私に胸の内を話してくれた。
今日、先生が新米の頃からずっと担当していた、人懐っこい小さな男の子の病状が悪化し、より設備の整った別の遠い専門病院へ急遽、転院していったのだという。
「あの子、救急車に乗る間際まで、僕がポケットに入れていた折り紙を握りしめて『千秋先生、バイバイ』って泣いていてね。……もし僕がもっと優秀な医者なら、僕の知識がもっと深ければ、あの子を別の病院にやらずに、自分の手で早く治してあげられたかもしれない。あの子の分厚い専門カルテを書きながらね、自分の頼りなさが情けなくなっちゃったんだ」
「医者は患者の前で泣いちゃいけないんだけどね」と言って、先生は、無理に笑おうとした。
その声が、微かに震えている。
その瞬間、私の目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ落ちてしまった。
千秋先生がどれだけ命がけで子供たちと向き合っているか、私は誰よりも知っている。
先生の白衣のポケットには、診察を怖がる子供たちを泣き止ませるための折り紙や手品道具が、いつもパンパンに詰まっている。
それは、先生の優しさそのものだ。
「えっ!? 美琴ちゃん、どうして君が泣いちゃうの!?」
千秋先生は慌ててベンチから立ち上がり、ポケットからハンカチを探そうとうろたえる。
私は溢れる涙を拭おうともせず、真っ直ぐに先生の綺麗な瞳を見つめた。
「だって……っ、千秋先生は、世界一優しくて、素敵なお医者様です! 毎日、自分の睡眠時間やお休みを削ってまで、子供たちのことばかり考えて……。どうして先生は、ご自分の心の痛みに、そんなに鈍感なのですか……!」
しゃくりあげながら、一生懸命に言葉を紡ぐ。
私の言葉に、先生は呆然と立ち尽くしていた。
「私は、千秋先生のその優しい笑顔に、何度も何度も救われました。神様が運命の人だって言ったからじゃなくて……。一生懸命で、誰よりも患者さんの痛みがわかる千秋先生だから、私は、好きになったんです……っ」
夕暮れ時の誰もいない公園に、私の泣き声と、不器用な告白が響き渡った。
恥ずかしさなんてなかった。ただ、大好きな人の傷ついた心を救いたくて必死だった。
千秋先生は動きを止め、言葉を失ったように目を見張っていた。
やがて、先生の端整な口元からふっと張り詰めた力が抜け、心の底から救われたような、本当に温かい笑顔が零れ落ちた。
「……まいったな。患者を元気にするはずのプロのお医者様が、十五歳の女の子にこんなに慰められちゃうなんてね」
先生は一歩、私との距離を詰めると、大きな、温かい手で、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
あの五歳の夏の日、境内で私を励ましてくれた時と、まったく同じ手の温もり。
心地よい安心感が、私の体を包み込んでいく。
「ありがとう、美琴ちゃん。君の綺麗な涙のおかげで、僕の心のカルテもすっかり元気になったよ。『医は仁術』……人を救うのは最先端の技術だけじゃない、目の前の人を思いやる心そのものだって、改めて君に教えられた気がする。僕の方が年上なのに、情けないね」
先生はそう言って、親指の腹で、私の頬に伝う涙を優しく拭ってくれた。
その触れ方に、胸がドクンと大きく跳ねる。
「美琴ちゃんがもっと大人になるまで、僕はもっともっと勉強して、たくさんの子供たちを絶対に救える、強くて優しいお医者さんになってみせるよ。だから……」
先生は少し照れくさそうに、でも、これまでで一番真剣な強い目で私を見つめた。
「だから、その時まで、僕の隣をずっと空けておいてくれるかい?」
「……はいっ、喜んで!」
私はまだ涙で濡れた顔のまま、満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。
薬指のプラスチックの指輪が、夕日を浴びてキラリと輝いた気がした。
神様の決めた運命。
それは、ただの子供の夢物語なんかじゃない。 私たちは確かに、心の奥深く、魂の場所で繋がっているのだと、私は少しの疑いもなく信じていた。
――しかし。
この時の私はまだ知らなかった。
十五歳と三十歳。これから私たちに待ち受ける、あまりにも残酷で、切ない『大人たちの現実の壁』の存在を。
そして、この幸せな約束が、一度引き裂かれてしまう未来のことを、私はまだ、何も知らなかったのだ。(第1章・完 / 第2章へつづく)




