第二部:繋がる命のカルテと、双子のワルツ 第38話:はじめての『授業参観』と、届いたSOS
第二部:繋がる命のカルテと、双子のワルツ
第38話:はじめての『授業参観』と、届いたSOS
神様がくれたホワイトデーの一瞬の奇跡。
大人の姿で初めて交わした熱い抱擁と口づけの余韻が、まだ私の心に温かい熱を遺したまま、季節は新緑のまぶしい初夏へと移り変わっていた。
私たちの世界のカルテには、ついに『初めての授業参観』という、親子の絆が優しく試される新しいページが追加されようとしていた。
「う、うわぁぁん! 千秋くん、みことちゃん! 一生懸命ノートに鉛筆を走らせる姿が健気すぎて、パパ、教室の後ろでもう涙で黒板の文字が見えないよぉぉぉ!」
一年一組の教室の後ろ。
大勢の親御さんたちが静かに見守る中、地域で一番大きな診療所の白衣(休日なのにやっぱり一番目立つ白衣を着てきてしまった)を羽織った陽太パパが、早くもお約束のように目から滝のような大粒の涙を流して大号泣していた。
「陽太さん、他の保護者の方の邪魔になるから大人しくして!」
奥さんにビデオカメラの三脚でツンツンと背中を突つかれながら、陽太パパが「だってぇ、二人がピシッと手を挙げているだけで、パパの涙腺のカルテは洪水警報だよぉ……」とハンカチで鼻水をすすっている。
私は生まれつき涙もろい目のまま、お隣の席の千秋先生とちいさな目を見合わせ、心の中でクスクスと楽しそうに笑い合った。
算数の授業中、中身が大人のベテラン夫婦である私たちは、先生の出す問題にテキパキと手を挙げて大正解を連発した。
後ろの陽太パパは、そのたびに「うちの双子は天才だぁぁ!」と声にならない叫びをあげて、白衣の袖(パジャマの袖)をびしょ濡れにしている。
そんな賑やかな授業が進む中、ふと、私は教室内にある『もう一つのカルテ(異変)』に気がついた。
私の二つ前の席に座る男の子の、後ろで見守っているお母さんの姿だった。
その女性は、ひどく顔色が悪く、肩を小さくすぼめて、まるで今にも倒れてしまいそうなほど虚ろな目で我が子の背中を見つめていた。
その手はガタガタと小刻みに震えていて、日々の家事や孤独なワンオペ育児のストレスで、心身ともに限界を迎えているのが、他人の痛みに敏感な私の天然な直感で痛いほど伝わってきたのだ。
(千秋先生……あのお母さん、心がひどく泣いています……っ)
(……気づいていたよ、美琴ちゃん。自律神経が悲鳴を上げているサインだね。病気だけじゃない、お母さんの孤独なSOSを見抜くのは、さすが未来の助産師さんだ。……よし、陽太パパのドクター魂(医は仁術)の出番だね)
千秋先生(六歳)の瞳に、命と向き合う圧倒的なプロの輝きが宿った。
授業が終わって休み時間になり、教室の後ろへと人が動き出したその瞬間。
「パパ……っ!」
私はよちよちと陽太パパの元へ駆け寄ると、その白衣の裾をぎゅっと強く握りしめた。
生まれつき涙もろい私は、あのお母さんの痛みが自分のことのように苦しくて、目からポロポロと大粒の涙を流していた。
「みことちゃん!? どうして泣いちゃうの!? パパ、後ろでおとなしくしてたよぉ!」
陽太パパが慌ててポケットからハンカチを出そうとした時、千秋先生が陽太パパのズボンのポケットをツンツンと引っ張って、あの知的な、でも絶対に迷いのない強い目で陽太を見上げた。
「パパ、あそこ。あのお母さん、頭がぽんぽんで、心がシクシクしてるの。パパの優しいお医者さんのカルテで、助けてあげて」
「え……?」
陽太パパはハッと息を呑んだ。
双子のちいさな名医たちに導かれるように、陽太パパは白衣をバサリと整えると、ふらふらと廊下へ出ようとしていたそのお母さんの前へと、素早く歩み寄った。
「失礼します。僕は近くの千秋地域診療所の医師、宮司陽太と言います。お母さん、とても毎日を頑張りすぎて、心の呼吸が苦しくなっていませんか?」
陽太パパは、驚くお母さんの前でそっと屈み込むと、子供をあやす時のあの世界一優しい笑顔を浮かべた。
そして、白衣のポケットから、私たちがいつも家で遊んでいる可愛い動物の折り紙の風船をパッと取り出して、お母さんの手のひらの上にそっと載せてあげた。
「医療はね、機械の数字だけじゃないんです。お母さんが一人で涙を流して抱え込んでいるその寂しさを、僕たち小児科医が一緒に半分こして、笑顔にするのがお仕事ですからね。……今日、この後、僕の診療所に少しだけお茶を飲みに来ませんか? ゆっくりお話を聴かせてください」
陽太パパのその温かい『医は仁術』の言葉と、包み込むようなドクターのオーラに、張り詰めていたお母さんの目から、ぽろぽろと大粒の安心の涙が流れ落ちた。
「……ありがとうございます。先生……っ、わたし、すごく、苦しかったんです……っ」
お母さんはお守りの風船をぎゅっと抱きしめ、長年の孤独から救われたように何度も深く頭を下げた。陽太パパのその格好良いお医者さんの姿を見て、私の目からも、今度は嬉しさと誇らしさの涙がボロボロと溢れ出した。
ざあっと、新緑のまぶしい教室の窓から心地よい初夏の風が吹き抜けた。
見上げると、校庭の大きな楠の木の枝の上に、あの白い服を着た銀髪の神様がひょっこり腰掛けて、どこから持ってきたのかお祝いの特製クッキーをモグモグと食べながら、お茶目ににやりと笑っていた。
神様がパチンと綺麗に指を鳴らした瞬間、私の右手の薬指の(目には見えないけれど確かにある)水晶の指輪がキラリと黄金色の光を放ち、救われたお母さんの心のカルテを優しく包み込んでいった。
「親の背中を見て、子が育ち。子の手のひらに導かれて、親の医師が命を救う。……実に見事な親子三代のカルテだな。今世もたっぷり楽しむがいいぞ、ちびっこたち」
神様はそう言い残すと、白い羽をパタパタと大きく羽ばたかせて、青い空の向こうへと消えていった。
夕方。
診療所に戻り、あのお母さんに優しいカウンセリングを終えた陽太パパが、診察室の椅子に崩れ落ちるようにして、またしても滝のような大粒の涙を流して大号泣した。
「う、うわぁぁん! 千秋くん、みことちゃん……っ! 二人が授業参観で僕の白衣の裾を引っ張って、あのお母さんのSOSを教えてくれなかったら、新米医師のパパは、大切な心の悲鳴を見落とすところだったよぉぉぉ……っ! パパ、二人が誇らしすぎて、またパジャマの袖(白衣の袖)がびしょ濡れだよぉぉ……っ!」
陽太パパがうろたえながら私たちをぎゅーっと抱きしめる姿を見て、私は生まれつき涙もろい目のまま、千秋先生とちいさな手を白衣の後ろでぎゅっと繋ぎ直して、あぅあぅと幸せいっぱいの声を上げた。
大病院の権力も、難しい医学の言葉も、今の私たちのちいさな手のひらには何もない。
けれど、こうして初めての授業参観でパパを最高に大号泣させ、千秋先生のちいさな指先と、陽太パパの熱いドクター魂で街のお母さんの心を救っていく毎日は、五十年の遠回りなんて一瞬で吹き飛んでしまうほど、きらきらとした最高の愛に満ち溢れていた。
神様がくれた、生まれ変わりの処方箋。
私たちの双子のワルツは、陽太パパの賑やかな大号泣と、新しく救われたお母さんの優しい笑顔に乗って、ここからさらに温かく、誰も見たことのない最高の愛のページをめくっていくのだった。
(第38話・了。第39話へつづく)




