第二部。繋がる命のカルテと、双子のワルツ。第30話。はじめての『幼稚園』と、屋根の上の特等席。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第二部。繋がる命のカルテと、双子のワルツ~
第30話。はじめての『幼稚園』と、屋根の上の特等席
よちよち歩きの指先で小さな男の子の命を救い、陽太パパを診察室の床で大号泣させてから、さらに月日が流れた。
私たちは無事に三歳を迎え、私たちの世界のカルテには、ついに『幼稚園(はじめての集団生活)』という、最も賑やかでドタバタとした新しいページが追加されようとしていた。
「う、うわぁぁん! 千秋くん、みことちゃん! 制服姿が可愛すぎて、パパ、診療所に行く前にもう涙が止まらないよぉぉぉ!」
入園式の朝。
玄関で、新しいちいさな紺色の制服に身を包んだ私たちを見て、白衣姿の陽太パパが早くもお約束のように目から滝のような大粒の涙を流して大号泣していた。
「ほら、陽太さん、泣いてないで早く車を出して! 遅刻しちゃうわよ!」
奥さんに背中を叩かれながら、陽太パパが鼻水をティッシュで拭う姿を見て、私は生まれつき涙もろい目のまま、千秋先生とちいさな手をぎゅっと繋ぎ合って、あぅあぅと幸せいっぱいの声を上げた。
そして、やってきた幼稚園の『ひよこ組』の教室。
「さあ、みんなでお遊戯のダンスをしましょうねぇ〜!」
優しい幼稚園の先生の声に合わせて、周りの本物の三歳児の子供たちが、一斉にキャアキャアと元気に飛び跳ね始める。
おっとり天然な私は、嬉しくなって周りの子供たちと一緒に「わあーい!」と両手を叩いてドタバタと楽しそうに踊り出した。
けれど、お隣に立つ千秋先生(三歳の男の子)だけは、ちいさな腕を組んで、じっと真面目な顔で周りの三歳児たちを観察していた。
(……うーん、美琴ちゃん。三歳児のふりをしてお遊戯をするというのは、大病院の過酷な院長総会でスピーチをするよりも、なかなかに緊張するカルテだね)
(あはは、先生、お顔が真面目すぎてちっとも三歳児に見えませんよっ。ほら、先生も一緒にジャンプ、ジャンプです!)
私が天然を発揮して先生の手を引っ張り、二人でふかふかのマットの上でゴロンと転がってラブラブしていると、教室の隅っこから、
「う、うわぁぁぁん!! 痛いよぉぉぉ、お家帰りたいよぉぉ!!」
という、男の子の激しい泣き声が響き渡った。
見ると、お友達の男の子が元気よく走り回りすぎて転んでしまい、膝を擦りむいてボロボロと大粒の涙を流して泣き叫んでいたのだ。
「大変! 健太くん、大丈夫!?」
幼稚園の先生たちが慌てて消毒や絆創膏を持って駆け寄るけれど、男の子はパニックになって暴れ、誰も手をつけられない状態になっていた。
他人の痛みに誰よりも敏感な私の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
すると、私の隣にいた千秋先生が、実になめらかな、大人のように美しい足取りでお友達の男の子の前へと歩み寄っていった。
「あぅ、うー。……ほら、ちいさなヒーロー。どうしてそんなに涙を流しているんだい?」
千秋先生(三歳の男の子)は、泣き叫ぶ男の子の前にそっと屈み込むと、子供と同じ目線になって優しく微笑んだ。
その瞳には、かつて数万人の子供たちの心を救ってきた、圧倒的なプロの『医は仁術』の温かい輝きが満ちていた。
千秋先生は、ちいさな制服のポケットをごそごそと探ると、あの日、五歳の私に見せてくれたのと同じ、可愛いクマのイラストが描かれた折り紙の風船をパッと取り出した。
先生が男の子の目の前でちいさな手をクルリと回すと、手のひらから折り紙の風船がフワリと宙を舞う。
赤ちゃんの頃からポケットに忍ばせて練習してきた、特製の手品だ。
「……あ、え?」
男の子は手品のあまりの鮮やかさに、ピタリと泣き止み、丸い目で千秋先生を見つめた。
(この風船はね、痛い虫を全部吹き飛ばしてくれる魔法の風船さ。先生が……じゃなくて、僕が一緒についているから、痛いの痛いの、飛んでいけ、だよ)
言葉にはならない。
けれど、千秋先生が男の子の頭を大きな……ではなく、ちいさな、温かい手でぽんぽんと優しく撫でると、男の子の顔から恐怖がすうっと消え去り、涙を拭いて
「うんっ」
と笑顔で頷いた。
幼稚園の先生たちも
「すごーい! 千秋くん、魔法使いみたい!」
と、驚きと尊敬の目で三歳の千秋先生を見つめていた。
ざあっと、教室の窓から心地よい秋の風が吹き抜けた。
ふと見上げると、幼稚園の園舎の立派な反り返った屋根の上に、あの白い服を着た銀髪の神様がひょっこり腰掛けて、私たちが朝ごはんで残したお祝いの特製クッキーをモグモグと食べながら、お茶目ににやりと笑っていた。
神様がパチンと綺麗に指を鳴らした瞬間、私の右手の薬指の(目には見えないけれど確かにある)水晶の指輪がキラリと輝き、お友達の男の子の擦り傷の痛みがすうっと和らぐような、不思議な優しい力が部屋全体を包み込んだ。
「幼稚園のカルテも、なかなか上出来だな。ちびっこ名医たち、今世もたくさんの命を笑顔にしてやるがいいぞ」
神様はそう言い残すと、白い羽をパタパタと大きく羽ばたかせて、青い空の向こうへと消えていった。
お昼過ぎ。
診療所の仕事を終えて迎えにやってきた陽太パパが、幼稚園の先生から
「千秋くんが泣いているお友達をあっという間に笑顔にしてくれたんですよ!」
と聞かされて、またしても玄関先で大号泣した。
「う、うわぁぁん、千秋くん、みことちゃん……っ! 二人はまだ三歳なのに、もう立派なお医者さんと看護師さんみたいだよぉぉぉ……っ! パパ、二人が誇らしすぎて、またパジャマの袖(白衣の袖)がびしょ濡れだよぉぉ……っ!」
陽太パパが滝のような涙を流しながら私たちをぎゅーっと抱きしめる姿を見て、私は生まれつき涙もろい目のまま、千秋先生とちいさな手を繋ぎ直して、あぅあぅと幸せいっぱいの声を上げた。
大病院の権力も、難しい医学の言葉も、今の私たちのちいさな手のひらには何もない。
けれど、こうして周りの子供たちとお遊戯をしてパパを大号泣させ、千秋先生のちいさな手品で新しいお友達の心を救っていく毎日は、五十年の遠回りなんて一瞬で吹き飛んでしまうほど、きらきらとした最高の愛に満ち溢れていた。
神様がくれた、生まれ変わりの処方箋。
私たちの双子のワルツは、陽太パパの賑やかな大号泣と、新しくできたお友達の元気な足音に乗って、ここからさらに温かく、未来への新しいページをめくっていくのだった。
(第30話・了。第31話へつづく)




