第二部。繋がる命のカルテと、双子のワルツ。第29話。はじめての『たっち』と、ちいさな名医。
50年目の恋文 〜神様の決めた許嫁と歩む、半世紀のカルテ
〜第二部。繋がる命のカルテと、双子のワルツ~
第29話。はじめての『たっち』と、ちいさな名医
うっかり「ちあきせんせい」と喋って陽太パパをショックのあまり石のように硬直させてから、数ヶ月。
一歳半を迎えた私たちの世界のカルテには、ついに『たっち(二足歩行)』という、最も待ち望んでいた新しいページが追加されようとしていた。
(……美琴ちゃん、焦らなくていいよ。ゆっくり、僕の手を目標にしておいで)
お昼休みの静かなリビング。
ベビーサークルの端っこに掴まりながら、私は生まれたての小鹿のように、ぷくぷくの両足をプルプルと震わせて立っていた。
数歩先では、すでに完璧なバランスでよちよちと立っている千秋先生(一歳半の男の子)が、ちいさな両手を広げて待ってくれている。
中身が大人のベテラン夫婦である私たちは、早くお互いに自分の足で歩き、手を繋いで神社へお散歩に行きたくて仕方がなかった。
「う、うぅ……アブゥ!」
私は一生懸命に力を込めて、サークルから手を離し、よろよろと前へ一歩を踏み出した。
天然で不器用な私は、二歩目でやっぱりバランスを崩してしまい、先生の胸の中に飛び込むようにして、二人でふかふかの絨毯の上にゴロンと転がってしまった。
(あはは、美琴ちゃん、ナイスイン。赤ちゃんの体は重心が高いから、歩くのはなかなかに難しいカルテだね)
(先生……っ、受け止めてくれてありがとうございます。赤ちゃんの体なのに、やっぱり優しくて格好良いです……っ)
私たちが絨毯の上でちいさな手をぎゅっと握り合ってラブラブしていると、診察室のドアがバタン!と勢いよく開き、白衣を着た陽太パパが顔を真っ白にして飛び出してきた。
「大変だ! 千秋くん、みことちゃん! ……って、二人で仲良く転がって可愛いなぁ……じゃなくて! ちょっと、お父さんの知恵を貸してほしいんだよぉ……っ!」
陽太パパはパニックになりながら、待合室のソファへと私を抱き上げて走った。
診察室のベッドには、一歳の男の子の赤ちゃんがぐったりと横たわり、若いお母さんが「先生、ただの風邪でしょうか……?」と涙を流して不安そうに立ち尽くしていた。
陽太パパは新米医師として、一生懸命に聴診器を当て、のどを診察していた。
「熱はそこまで高くないし、喉の腫れも軽度だ。……普通の風邪(上気道炎)のカルテを書いて、お薬を出しておきますね」
陽太の診断は、医学の教科書通りだった。
けれど、私は隣のベビーサークルの中から、ぐったりしている男の子の様子を見て、胸の奥がチクリと激しく痛んだ。
男の子は、機嫌が悪いわけではない。
ただ、ぐったりとして、時折、自分の頭をちいさな手でトントンと叩くような奇妙な仕草を繰り返していた。
他人の痛みに敏感な私の天然な直感が、激しい危険信号を鳴らす。
その時、私の隣にいた千秋先生が、もの凄いスピードのよちよち歩きで、サークルの隙間から診察室へ向かって真っ直ぐに乱入していった。
「あぅ、うー! あぶぅ!」
千秋先生(一歳半の男の子)は、驚く陽太パパの制止をすり抜けると、ベッドの男の子の足元に手を置き、よろよろと背伸びをした。
そして、白衣のポケット……ではなく、自分のちいさなズボンのポケットから、さっき神様からお祝いで隠してもらった、きらきらと輝く『水晶のお守り』をサッと取り出したのだ。
先生はそのお守りを、男の子の額の前にかざした。
すると、お母さんや陽太には見えなくても、私にははっきりと分かった。
お守りの水晶が、男の子の頭の奥の異変を知らせるように、冷たくて不気味な紫色の光を放ったのだ。
(陽太先生、のどや熱だけを見るんじゃない。この子は、頭が痛いんだ。首の後に触れてごらん。髄膜炎の初期症状、項部硬直が始まっているぞ)
言葉にはならない。
けれど、千秋先生は男の子の首の後ろを、自分のぷくぷくとしたちいさな指先で、優しく「トントン」と叩いてみせた。
「……え? 千秋くん、どうしてそこを叩くの……? あ」
陽太パパはハッと息を呑んだ。
ベテラン小児科医だった父親(本物の千秋先生)が、昔、自分に教えてくれた診察のカルテ。
のどや熱だけでなく、子供の『言葉にできない仕草』をすべて見抜くこと。
陽太は慌てて男の子の首の後ろをそっと持ち上げた。
男の子は痛そうに顔をしかめ、首が硬く強張っている。
ただの風邪じゃない、一刻を争う重い脳の病気(髄膜炎)のサインだった。
「救急車だ! すぐに大病院へ転送する! お母さん、早く見つけてあげられてよかった、今すぐ大きな病院で点滴を打てば、絶対に助かりますからね!」
陽太パパが迅速に電話をかけ、男の子とお母さんは救急車に乗って大病院へと運ばれていった。
一歩遅ければ、大変な後遺症が残るところだった。
ざあっと、診療所の窓から心地よい秋の風が吹き抜けた。
見上げると、待合室の天井の照明の陰から、あの銀髪の神様がひょっこり顔を出して、お茶目におにぎりをモグモグしながらウィンクをしてみせた。
神様がパチンと指を鳴らした瞬間、私の薬指の水晶の指輪がキラリと輝き、私のちいさな足に、不思議な力強い元気がみなぎってきた。
「がんばったな、ちいさな名医たち」
神様はそう言い残すと、白い羽を揺らして青い空の向こうへと消えていった。
「う、うわぁぁん……っ、本当に危なかったよぉ……っ!」
救急車を見送った陽太パパが、診察室の床にへなへなと崩れ落ち、白衣の袖で目から滝のような大粒の涙を流して大号泣した。
「千秋くん、みことちゃん……。二人がよちよち歩きで助けに来てくれなかったら、新米医師の僕は、大切な命を見落とすところだったよぉ……っ! やっぱり、二人は僕の自慢の天才子供たちだよぉぉぉ……っ!」
陽太パパがパジャマの袖(白衣の袖)をびしょ濡れにして私たちを抱きしめる姿を見て、私は生まれつき涙もろい目のまま、千秋先生とちいさな手をぎゅっと繋ぎ直して、あぅあぅと幸せいっぱいの声を上げた。
大病院の権力も、難しい医学の言葉も、今の私たちのちいさな手のひらには何もない。
けれど、こうしてよろよろと『たっち』の練習をしながらパパを大号泣させ、千秋先生のちいさな指先で新しい命の危機を救っていく毎日は、五十年の遠回りなんて一瞬で吹き飛んでしまうほど、きらきらとした最高の愛に満ち溢れていた。
神様がくれた、生まれ変わりの処方箋。
私たちの双子のワルツは、陽太パパの賑やかな大号泣と、新しく救われた男の子の未来の足音に乗って、ここからさらに温かく、誰も見たことのない最高の愛のページをめくっていくのだった。
(第29話・了。第30話へつづく)




